時間と空間の制約はひとつの固定点を仮設する時から始まる。
「私」という存在は一個の生命のこの世界における誕生から始まり、育まれ、成長し、結実し、やがて朽ちて、死んでいくプロセスであり、これは如何ともしがたい自然の摂理であるように見受けられる。一個の中心から見ればマクロの宇宙は無限大で無尽蔵、推し測りがたいものであり、ミクロの世界の宇宙は、これまた、空間的にどこまでも無限小で時間的に無限小の瞬間である。そして、それぞれの個である我々も、実に、小さく儚く脆いものであるという現実がある。マクロのビッグバンの雄大な消滅も、ミクロの一瞬の消滅も、時間と空間の制約のなかにおける変化変滅であるように見える。
更に、素粒子のような無限小の個であろうが、無限大の宇宙であろうがこれらは個々別々のばらばらな存在ではなく、無限の時空の中で縦横に連鎖している。すなわち無限小であろうと無限大であろうと全て連鎖している。すなわち絆で結ばれているように見える。
秘教ではこのことをビックサークル(大円)、ビックチェーン(大いなる連鎖)と表現している。相互依存と相互関連の偉大なる大連鎖、すなわち世界はあなたであり、あなたは世界である。たとえ、あなたそのものはいかに小さく、もろく、儚いものであろうとも、大連鎖の一部であり、その存在は大いなる絆を結ぶ結び目である。個々の生命・魂・霊性をつなぐ帝釈天の網すなわち無限連鎖の網によって繋げられた結び目である。個々の生命は時間と空間の制約の中における生滅ではあるが、宇宙が産み出した生命であることに違いはない。
しかし、注意しなければならないのは、連鎖にも負の連鎖と正の連鎖があり、負は破壊・分解・消滅。正は創造・生成・発展。すなわち連鎖(絆)にも生滅があるように見える。
ゆえに我々の依って立つところの国土や地球あるいは太陽系という大自然界に異変が生じ、破壊という負の連鎖が起これば、我々個々の生命はひとたまりもない。
では、この我々はいかに広大無辺の大宇宙の中といえど、砂上の楼閣に現れる儚い陽炎に過ぎないのであろうか。
上記の秘教的平板な宇宙観だけでは我々の本当の生命の姿は把握できないのだが、われわれはそれすら意に介しない。
それ故、我々はあの震災の大津波の折に津波警報を身を呈して放送し続け、犠牲になった一人の女性の声がどれだけの人を助けたか計り知れないものであると思いながらも、いま、あの声を耳にすることは、あまりにも切なく、辛く、悲しい。放射能汚染で住民が避難し、立入禁止にもかかわらず、泥棒に荒らされ放題。目先の利得にかられて徘徊する者たちの愚行、その背景にあるものをみるにつけ、あまりにも浅ましく、哀しい。
私達は、日常、常に大なり小なり、このような問題に苛まれながら喜怒哀楽の苦悩の人生を送っている。生命というものはそういう環境や自然、社会という時間空間の制約の中で生かされ生きていく儚い存在にすぎないものなのだろうか。
非常時には絆も深まるが、少し楽になるとお互いのわがままや利害が邪魔をして、心が離れ離れになってはいないだろうか。いや、逆に自己主張や争う余裕があるのは、まだ幸せなのかもしれない。まさに、いま、世界が滅びようとしているのに………
ブッダが歩いておられた時代も、今日の我々が歩いている時代も、ブッダの警鐘を鳴らし、ある方向を指し示さざるを得なかった世界や個人の悲しみに変わりはないのだろう。
そのブッダが警鐘を鳴らし、指し示されたものは、時間と空間の条件付けに「執着するな。本不生で生きよ」ということであった。
ブッダは語られる。
「戦争、対立、そして手のつけられないような利己主義に満ちた混乱のただなかに、死という一大事が横たわっている。古い昔から最近のものに至るまで、宗教はこの死という事柄に対する出来会いの答えとなるようなある種のドグマ、希望あるいは信念を受容させるように人間を制約し、条件づけてきた。けれども死は、思考や理知をもってしては答えられない事柄である。それは厳然たる事実であり、決して避けて通ったりはできないのである。
死とは何かを知るためには、人は死ななければならない。しかしそれこそは明らかに人があえてなしえないことである。なぜならば、彼は己れの知っているあらゆるもの、自分に最も身近な奥底に根ざした希望や幻像といったものに対して死ぬことを恐れているからである。
実際には明日などはないというのに、人は現下の生と将来の死との問に数多の明日を並べ立てる。人はこの時間のすき間に、恐怖と不安におののきながら、しかも絶えず死という避けがたいものに目を向けつつ暮らしている。それについて口にしようとすらせず、自分の知っているあらゆるもので墓場を飾り立てて、その事実から目をそらそうとしているのである。
特殊なかたちの知識のみならずあらゆるかたちの知識、すなわち己れの知っているあらゆるものに対して死ぬこと、それが死である。未来、すなわち死を招き入れて今日全体を包みこむこと、それがすなわち全的に死ぬことである。そのときには生と死には何の間隙もなく、そのとき死は生であり、生は死である。
疑いもなく、そうしたことは人の望むところではない。けれども人は絶えず新たなものを求めている。片手には常に古いものを抱えながら、もう一方の手を未知の方に差し仲べて新たなものを模索しているのである。それゆえ私と他人、見る者と見られるもの、事実と理想の姿との間に絶えず二元性が生まれ、葛藤をもたらすのである。
このような混乱は、既知なるものに終止符が打たれたときにはじめて、きれいさっぱりと消えてなくなる。このように終焉することが死である。死は観念や表象ではなく、恐ろしい現実であって、昨日に根ざした今日の物事にすがりついたり、希望の象徴を崇拝してみたところで、人は死から逃れることはできないであろう。
人は死に対して死ななければならない。そのときはじめて天真爛漫さが生まれ、そのときにこそ永遠の新しさが姿を現すのである。愛は常に新たであり、ひとたび記憶されるやそれは姿を消してしまうのである。」
ああ、それにしてもブッダの声はあまりにも厳しい。それを理解することは、甚だ困難なことに見える。しかし、いまここに生死の縁に立っている者にとって、これは如来の慈悲の光明として響く。なぜなら、まさに死そのものに直面しているからである。
何故かいま、阿弥陀如来が世界に臨在し給いて、私達にこう語りかけていおられるのである。「君自身が自らの光となりなさい。今がそのとき(瞬間)だ」と。そして我々を無量の光で包んでおられる。
今日、阿字本不生を全人類が理解することが喫緊の課題であることはすでに述べ続けてきた。そのことを導き出しているものは、小職の周辺に頻繁に起こる不可思議の聖体顕現の現象である。しかも、阿字本不生こそが唯一ゴーダマシッタールダ釈迦牟尼仏・ナガールジュナ龍樹菩薩・シャーンタラクシタ寂護尊師・弘法大師空海・僧盤珪禅師・クリシュナムルティ等が指し示してきたものであるという不可思議なはからいである。
我々はそれを真剣に見つめなければならない。今、小生の前にアミーといわれる如来が頻繁に現象化して、こう伝える
『破壊のシバ神不動明王の炎の本性は阿字本不生であり、その本不生とはアミーである慈悲と愛と叡智を束ねる創造の光愛である。念じなさい。念じなさい。アミーを念じなさい。
念仏とは「今」、君自身の「心」を、アミーといわれる慈愛の光「仏」で満たすことです。念じなさい。念じなさい。いまここで念じなさい。不動明王の真言ノウマクサンマンダーバーザラダンセンダマーカロシャダーソワタヤウンタラタカンマンとアミー(阿彌陀如来)の真言オンアミリタテイゼイカラウンを誦じなさい。君たち人類ひとりびとりの不生の仏心、すなわち君自身の光が、いまこここで世界を救済するエネルギーである。なぜなら、あなたは世界であり世界はあなたであるからだ』。地球の未曽有の危機に直面し、困難ないまだからこそ、かつてない力で如来たちはこのようにして聖体顕現し続けているのかもしれない。あなたも私もこれをどれほど真剣に受け止められるのであろうか。
萬歳楽山人 龍雲好久