夕暮れ、鐘楼に登る。西の方、半田山と萬歳楽山そして遥か彼方南インドのアルナチャラ山に向かい、本不生大神咒の祈りを捧げる。
眼下に田畑が幾重にも広がり、山裾まで棚田が続く。山も森も田畑も青々として美しい。ところどころに点在する集落の木々から、ひぐらしのこえがあちこち響き合う。全くの静寂があった。
山の麓に沿う高速道路の騒音も、静寂の一部であった。鐘楼のすぐ側を新幹線が一瞬のうちに過ぎ去る。遠くの踏切の音が微かに聞こえる。やがてカタコトと電車が警笛を鳴らし過ぎていく。独りの老人が物置のトタンを打ち付けている。辺りには、夕暮れのいつもどおりの生の営みがあったが、それら一切のものの運動と響きを、かの慈しみ深い本不生の静寂が包んでいた。
ふと、見ると鐘楼の朱塗りの欄干に一匹のアオガエルがいた。僧と同じく西の方を向いて、細い前足をでっとはじかって、腰を下ろし、何やら夕日に向かって黙想している。手を伸ばせば届くところにいた。欄干の中央に独りポツネンと坐す小さなカエルの後ろ姿はどことなく愛嬌があった。ニョキッと突き出た耳がまた可愛いらしい。しかし、彼には触れがたいほどの威厳があった。静寂の只中にある彼は、傍らで僧が祈り、突き出す鐘の音にも全くたじろがず、独り黙然としている。
いつしか、僧も青蛙も一体となり、梵鐘の阿字本不生響きと共に、彌陀の慈光の御手に乗り、地球を一周していた。それは「常に いまここ」にして初めて可能なものであった。
夕日は沈み、燃えるような空の色も灰色に変わり、山々も森林も田畑も集落も寺も鐘楼もカエルも僧もすっかり夕闇の静寂に呑み込まれつつあった。やがて、夕べの祈りを終えて、僧が鐘楼を降りようとすると、かのアオガエルもゆっくり、コソッコソッと一緒に欄干を降りるのであった。
仏陀は次のように語りかけられた。
本不生の瞑想には始まりも終わりもなく、その瞑想には成功も失敗もなく、蓄積したり放棄したりすることもない。
その瞑想は終わりのない運動であり、それゆえ、時間と空間を超えている。
それゆえ瞑想や悟りを体験したいということは、それらを否定することである。
体験するとき、ひとは時間と空間に縛られ、記憶や認識という経験束縛されてしまうからである。
真の瞑想は、ただひたすら今ここに感受する気づきの中にある。経験されたものの騒音、すなわち権威や野心、怨みや恐れである自我の主張や、自我の幻想、空想、信念、信条などという精神が生み出す虚妄性に気づき、それらがすっかり止む(阿字観)とき、自ずから全く自由な天真爛漫なこころに、静寂なる本不生が顕わとなる。
それは生滅の虚妄性、すなわち、私というエゴを超えて、先験性からやってくる、全く新しい創造のエネルギーの顕現に、常に、いまここに、向き合うことが真の本不生の瞑想となる。
あなたには、常に、今ここしかない。昨日も明日も、今ここがなければ幻想でしかない。事実や真実は、あなたの常に今ここにあり、それに気づくとき、あなたというエゴはなく、あるのは本不生という慈光のみである。
鐘楼のあるこの寺に正徳寺の僧が創建した阿彌陀大仏が蘇った。この大仏がこの地に、今から三百年以上も昔に造立されたものとは、この日鐘をついた僧がやってくるまでは誰も知らなかった。その阿彌陀如来が時空を超えて、いまここに、本不生という慈悲の光明を輝かせている。
この通信に触れたものは、現代に奇蹟をもたらしているこの阿彌陀如来の慈悲に、まさにいま、ここで触れている。それは常に輝き、あなたを導いているのである。
萬歳楽山人 龍雲好久