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作成日:2012/11/30
心の通信H24・11・9《アミターバの福韻》

 寺に住んでいると、毎日のことで意識せずに過ごしているのだが、時折、はっとする不思議な感覚に出会うことがある。

 これまで多くの寺で修行させてきていただいた時でも自分が素直にそう受けるとれる感覚というものには、めったに巡りあう事はなかった。全く初めての感覚でもあるが、しかし、どこか懐かしくほっとする感覚である。

 それは、正徳寺の阿弥陀大仏の前でいつものように祈りを捧げながら、とりとめもない思いの中で、突然、起こった。

 (仏教は出世間(しゅっせけん)であるとはいえ、寺に住んでいても年がら年中おこもりをしているというわけではない。むしろ、世間の雑事に翻弄されていると言った方が近い。原因は世間と出世間の間の半僧半俗という中途半端な位置に自分を置いているからであろう。

 世間というものは、自分自身のためであろうと他人のためであろうと、自分の行動の規範に基づきがちである。そこで互いの自己中心性が利害対立をあらゆる関係において生じさせている。相互に如何なる関係を持つか者か、自分や相手がはっきり決めてくれないことには、行動が取れないとも思っている。世間ほど自他の関係に神経質なものはない。利害が伴う場合はなおさらのことであろう。利害関係を曖昧にはできないと思う傾向は本能的に強い。しかし、所詮、実際には、自他における関係性は曖昧なものであるから、世間も、自分もいつも混乱し、葛藤している。

 このような世間的混乱に乗じているので、いくら 如来性(ほとけ)に従事する寺の住職や僧侶だからと言っても、世間の要件に応じることに汲々とし、自分の立場を世間に合わせているという意味では、まさしく、世間的であり、俗物であり、決して出世間であるとはかぎらない。むしろ、出世間というのは、こういった利害の対立を生む世間の思惑という枠を超えることを意味するのであるから、それは、世間にあっても、様々な混乱や矛盾をあるがままに観察する明晰性。すなわち、泰然自若として微動だにしない透徹した眼差しを持つことをいう。これは、見かけ上の僧とか俗人といった形相ではなく、その人の本質性、すなわち、如来性にかかわるものであり、それゆえ、うわべを飾るところのものではない。物事の本質を見抜く眼差しを持った者にとっては、こうした虚偽性はすぐに見破られるものである。そもそもこうした本性は本来偽ることができない。ゆえに、いつも、私は欺瞞と本質との間の葛藤に苦悩せざるを得ないでいる。

 嗚呼、私は一体いつになったらこの愚かさから抜け出せるというのであろうか‥‥。

 どうして心はいつもこうして千々に乱れて居るのであろうか‥‥。

一体、世間から隔絶するということは、世間を遮蔽するということなのであろうか。いや、明らかにそうではない。世間を深く理解することは、世間に振り回されることとは異なる。振り回されないでいることは、世間から隔離されたり、無関心であるということではない。世間を深く理解することは、世間のまっただ中にあって、しかも世間に非ざるものであるとブッダは語られていた。

 確かに、自分を含め、世間をよくよく見つめてみると、人間も世間も、人と人の間、世と世の間にあって苦悩し、混乱しているが、それぞれのどうしようもない自己中心性、自我我欲、自己保存の確執から来ている。

 その我欲という自己感覚の歪みが、世界の歪みとなっている。人の心の傷、トラウマがそのまま世間のトラウマとなっている。

 そう!人はどうしても自己に執着するがゆえに、「非自己」なるものを理解することができない。理解できないがゆえに「非自己」なるものを大義名分化し、それと卑小な自分を重ねあわせ、それを拡大し、より大きな混乱と破壊、残忍極まりない愚行を展開する。まさに、自己は懊悩そのものである。

 それでは、「非自己」は懊悩しないのか。いや、誰よりも深く懊悩しているものである。しかも、個人が懊悩しているのではなく、「非自己」は生きとし生けるものすべての懊悩する叫びであった。しかし、また、この、懊悩そのものを直接あるがままに理解することを妨げるものが、まさに、傷ついた自分自身である。

 嗚呼、私は一体いつになったらこの愚かさから抜け出せるというのであろうか‥‥。)

 ふと、伏し目がちにそう思いながら、眼前お阿弥陀大仏のお顔を仰ぎ見る。

 すると、みるみる頭脳の働きが静かになっていく。あれほど思念と思考に千々に乱れていた精神が、静かになっていくのがわかる。自身では何もしていないのになぜといぶかしく思うほど、静かであった。そのときの阿弥陀如来の御手のなんとも言えぬ優しい慈光が次々と押し寄せ、全身全霊に染み渡るかのようである。それは、あまりにも優しく温もりのある光であった。

 その、光の調波に乗じて、重く静かに響いてくるものがあった。

 「つねに、いま、ここ」「いま ここ」「いま ここ」

 その響きをわが胸に享受していると‥‥

 

  もう目覚めなさい 心よ――

  迷妄のくらやみにいつまで眠っているのかね

  君は誰で なぜこの世に来たのか

  ほんとうの自分を忘れているね

  さあ、目をはっきり開けて

  悪い夢から覚めなさい

  矢のように流れ去るはかないものにしがみつことをやめて

  本不生から刻々に湧き出ずる

  永遠のいのちの喜びを享受しなさい

  いまここに いまここに 

  悲しく苦しい闇夜からぬけだして

  輝く太陽でを仰ぎなさい

 

 これまで遭ったこともなかったラーマクリシュナが忽然と現じ、このように「不滅の言葉」を響かせた。

 さらに

 

  あなたがいまここで向き合う光体

  すなわち阿弥陀如来(実は、三百年もの間仕舞い込まれていた大光山正徳寺本尊阿弥陀如来)の光は本不生から刻々に湧き出ずる神のいのちそのもの。

  それはゴーダマブッダのいう

  知覚を成立させる直前の「知覚原因」が過去と未来の境になる今に、

  大初以来一回のみ経過しながら消失し続ける阿字本不生であり、

  すべての生きとし生けるものはひとしくこのいのちのうちに刻々と全く新しいいのちを生きている。

  ラーマクリシュナの福韻は大光山正徳寺本尊阿弥陀如来の慈悲の光明でもある。

  その普遍の光明がいまここに刻々と輝いていることのみを理解しなさい。

 

 このような、はっとする不思議な動かしがたい光に出会っている。

 読者諸氏に幸あれよかし。

萬歳楽山人 龍雲好久