早朝、お堂に登り、本尊に向き合い、ロウソクを灯し、香をたく。数珠を擦って、祈念を凝らし、経文を唱え、鐘を打つ。そんな日常のわずかな一瞬のうちにさえ、思考の雑念はふつふつと沸き上がってくる。
これが、世間のただ中にある自分の絶えざる状態なのだが、その世間とはとりもなおさず外と内とに分離した自我のざわめきなのである。そのざわめきの根底にあるものは、常に過去を悔い、未来を恐れている自分である。
精神が思考の渦で堂々巡りをしているとき、そこには、必ず何らかの恐怖心がある。それは、日常のいろいろな関係で挑戦を受けたことに対する意識的、無意識的な不安や恐怖である。この関係性の恐怖は進化の過程で遭遇してきた喰うか喰われるかの激しい戦いの記憶でもある。生き残るための種の保存本能が根底にある。大自然界における生き残りをかけた戦いという記憶が生命体の心身の奥深く刻印され、どんな些細なことのように見える刺激でも、心の闇のように潜む奥底からフツフツとガスのように沸きあがる。
この自縄自縛の恐怖心は、放っておくと生きるか死ぬか暴発を引き起こしかねない。個人であれ、集団であれ、その元凶は自己保存のために作動するエゴイズムによる搾取と影ずる。搾取するものもされるものも、取るか取られるか、喰うか喰われるかの自他対立による本能的な搾取戦争の悲劇に余念がない。悲劇、そう、この戦いは進化を促すというより、搾取側もされる側もともに深い傷を残し、膿んだ傷の瘡蓋のようにいつまでも心を苦しめ、やがて、精神を腐らせてしまう。まさに悲劇である。
ゴーダマシッタールダ釈迦牟尼佛はこの我々の宇宙創造以来際限もなく繰り広げてきた孤立化の課程である悲劇を終焉させるべく、正法を指し示された。人類の虚妄なる執着に基づく暴力性を終わらせるべく、自己変革へと固着した人類の意識の奥深くにメスを入れられた。それは、数十億年もの進化のプロセスの下に、数十兆もの細胞に刻印され続ける自我の欺瞞性、条件づけられカルマという世俗性を暴き、この混沌とした思念や思いからの解放をもたらすものであった。
だが、今日、人類のカルマは底しれず、ブッダが出現して二千五百年を経た今もなお、自分を含め、世界の人々はなお混沌として、自縄自縛のカルマから抜け出せず、もがいている。
それだけに、ブッダが問われたことは人類にとって最も困難な課題であるのだろう。そもそも、ブッダは宗教や信仰や祈りによる安易な気休めと逃避は自己欺瞞の幻想に至り、自らを滅ぼし世界を滅ぼしかねないと、強く警鐘を鳴らされておられた。にもかかわらず、そのブッダの教えを今に継承する自分は供犠と祈りを基盤とする世俗性の中で腐っている。それが、「私」の偽らざる実体である。これこそ偽善者と言わずしてなんというのであろうか。
ブッダは「人々はわがものと執着したもので悲しむ。自分の持っているものは実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである、とわかった後は在家(世俗性)にとどまっていてはならない。」と「出世間」であることを強く促されている。
このブッダが指摘されるところの意味は何であろうか。
「わがもの」として執着の対象となっている事物は、「実相」では「実に常住でなく」「失われる性質のものである」とされる。「常住ではない」とは「静止して存在するのではない」、「いま変動しつつある」ということ。そして「失われる性質のもの」とは、「停滞なく、経過して、いまのその変動が消失する」、つまり、「過去になる」ということ。これは、「いま知覚されるものは」過去の同じあり方が知覚されているものではないということ。すなわち、「いま・ここ」として知覚されているものは、「先験である知覚原因が、太初以来、一回だけ経過して消失する」という真実相(本初不生)にあって、「常に新しい」ということ。
しかし、世俗に囚われた我々は、その「常に新しい知覚原因」に向き合うことなく、しかも、われわれに「知覚されたものは必ず消失するものである」という真実相にも関わらず、その真実相受け入れることを拒絶し、心身に記憶や経験に止めたものを蓄積し、それら虚妄なるものにもかかわらず、実体として表象化し、永遠なるものを打ち立てようともがいている。この自我中心の虚妄なる世界観に執着している愚かさから早く抜け出しなさいとブッダは示されていた。
嗚呼、しかし、このブッダの指摘がわれわれにとっていかに困難なことであるか、有史以来の今日までのわれわれの文明や文化の経緯を「私」という個人の実体を観ればよく分かる。
特に、人間固有の宗教性においては、絶対者や神、無数の神々や佛菩薩たちを妄念し、実体視し、それに固着する自我の所産と行為に気づくことはなお困難で、未だに世間は神や正義やイデオロギー、自我の理念や信条のもと、殺戮と搾取を繰り返すという巧妙でしたたかな暴力性から免れないでいる。
今朝、早く、大光山正徳寺本尊阿弥陀如来の御前で「祈念」を懲らしながら、何気なく自分を見つめていた。ふと、気配を感じて阿弥陀大仏に目をやると、そこにはなんとも言えぬ微笑みがあった。慈しみに満ちた光があふれでていて驚いた。如来性から響いて来るものがあった。
「ブッダが指摘される真実相に向き合うには、「いま ここ」で、この際限もない妄念で占められている自分に気づきなさい。そして、「いま ここ」であなたが向き合っているものは、そういった自分の妄念には関わりのない、常に新しい真実の相であることに心向け、気づきなさい。「いま ここ」「いま ここ」「常に いま ここ」というようにです。ブッダが示されたように「消失した」いのちなきものにしがみついていては、刻々と「いま ここ」に現れている全く新しいいのちの真実相に向き合うことはできないのです。「いま ここ」「いまここ」です・・・・。
この如来の響きを聞いて、こころがハッとした。居眠りから覚めたかのごとくすべてが「いま ここ」に明晰であり、静であった。打つ鐘の響きに呼応するかのように、朝の日の光を浴びた五色の垂れ幕が、心地よい風にゆらりとはためき、お堂を撫でる。集い来る小鳥の群がひときは盛んにおしゃべりに余念がない。カタコトと列車が近くを通り過ぎた。すべての生命が光に輝いていた。やがて、人々も起き出してくるのだろう。
「いま ここ」「いま ここ」いのちの実相は常に新しいいまここである。
萬歳楽山人 龍雲好久