それはだいぶ前のことであったが、鬱蒼たる森林の山奥に入ってのことだった。不思議な経験をしたのを今でも覚えている。
谷を越え、幾つもの山並みを渡り、かなり奥く深くに入ってのことであった。そこは、突如、開ける大寺院の大伽藍の跡地であった。古い時代に広大な敷地を領した大本山であったが、僧兵を擁していたために、とうとう、秀吉の激しい焼き討ちにあい、堂塔伽藍の殆どを失い、そこに暮らす老若男女を問わず、すべての尊いいのちが犠牲となった歴史のある所であった。
以来、今日に至るまで、荒れ放題であり、訪れるものも少なかった。残ったほんの僅かな堂塔伽藍はすっかり朽ち果てていた。しかし、庭園や森林の緑は今なお鮮やかで生き生きとしていた。
大門跡を通り暫く行くと、ひとりの老婆が木の切り株に腰をかけて休んでいた。
自分は足悪いのでこの急な坂を上ることはできないので、同行の遍路が戻ってくるのをここで待っているという。しかし、あたりには人の気配は全くなく、樹木が風に揺らぐばかりで、時折、鳥の声が響く、静寂さの只中にあった。
また、しばらく行くと、草に覆われた広い庭園の跡があった。その奥にはかなり朽ち果てた古い御堂がひっそりと佇んでいた。近づいてみると、思いの外見上げるほどの大きな多宝塔であった。深山幽谷の山麓にあっては、ほんの小さな清楚な美しい御堂であった。御堂の戸が少し開いていたので、入ってみると、薄暗がりの中に大きな大日如来が独り黙然と座していた。本尊に礼拝し、円形の堂内を右回りに巡った。全き静けさのみで、誰もおらず、シンとして静まりかえっていた。本尊の背から左側に巡りでる。かの観音扉の口から堂内に庭園の緑の光が差し込んで薄暗がりの黒黒とした床に映えていた。そのあまりの美しさに息をのむ。本尊の左袖に座し、しばらく瞑想をしていた。時折渡る穏やかな心地よい風が本尊と私の間を通り抜ける。何ともいえず気持ちがよい御堂であった。
どれほどの時が経ったのであろう。遠くから、微かに鈴の音が響いてきた。やがてその鈴の音はだんだん近づいてきた。ふと目を開けてみると巡礼者一行の鈴の音であった。女性ばかり7?8人の一行であった。一行は庭園を迂回し、この御堂に至った。無言のまま入堂し、ほかの参詣者のじゃまにならない位置取りでめいめいが三礼して座した。すでに堂内にいる私には全く気づいていない様子であった。ただひたすら本尊に向かい、礼拝していた。私は座したままぴくりとも動かずにいた。巡礼者の衣擦れの音と白装束が緑に映る床の上で、シルエットのごとく黙々と動いている。やがて、彼らは経文を一心不乱に唱え始めた。それは静かではあったが、力強く、よく揃った祈りであった。その純真無垢な経文の響きに聞き入っていると、やがて、不思議な声が、そう!見上げる本尊の背の方から響いていた。間違いなく巡礼者たちと対面している本尊の頭の後ろの方から聞こえるのであった。太く低い響きであった。声ではあったが人の声とは明らかに異なる響きであった。
私は、誰か後ろにいるのかと訝しく思い、何度も覗いてみたが、やはり誰もいない。しかし、巡礼者たちの声とは明らかに異なる声が一緒に響いていた。まるで巡礼者を包み込むかのような響きであった。もちろん一心に念仏三昧の巡礼者たちにその声が聞こえている様子はなかった。
祈りを終えると、彼らは無言で立ち去った。鈴の音がだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなって、再び、全きの静寂に戻った。
御堂を出て少し歩くと、森の奥の方から、微かだが、真言陀羅尼を唱えている僧の声がする。耳を澄ませ聞いていると、それは確かに陀羅尼を唱えている声であった。その声の質から若い修行僧なのであろう。早口だが確かに聞こえる。声のする方に少しずつ近づいてみる。その陀羅尼は確かにこう聞こえる。「ノウボウバギャバテイタレイロキャハラチニバリタヤアヨクシデイビシュダヤビシュダヤビジャヤビジャヤ・・・・」仏頂尊勝陀羅尼であった。
さらに声のする方に近づいてみる。そして、とうとう声の側まで来た。だが、そこには全く人の気配はなかった。僧も誰もいないのであった。しかし、陀羅尼は聞こえる。果て誰が唱えているのであろうか。声のする葉群の奥に目を凝らす。なんと、それは清流が流れる沢の音であった。その沢に沿って小道がありその奥を見上げると奥の院があり興教大師覚鑁上人をまつる御廟があった。ここは根来寺の跡であったのだ。
さて、弘法大師空海は五大に響きありと語った。「大宇宙に響きわたる地水火風空の声を聞け、それは仏の声である」と。
「眼耳鼻舌身の五官を研ぎ澄まし、第一原因である阿字本不生の声を聞け。決して、自分が心に貯めた我見や妄念、虚妄から発する声を聞くのではなく、あるがままの大自然界が発する響きに耳を傾け、目を凝らせ。たとえ、苦悩や孤独、不安や恐怖、悲しみや喜び、あるがままの事実に目を向けよ。耳を傾けよ。思考や思念、盲信の雑念を去って、ひたすら今ここに心をおけ。たとえどのような境遇におかれていようとも、そこには紛れもなく仏の声、宇宙の真実が響いているのである」と。
萬歳楽山人 龍雲好久