早朝、お堂に入る。しばらくすると、堂内に柔らかな朝の光が射し込み、外陣の畳や内陣の須弥壇、大壇、本尊や諸尊の蓮台、天蓋や憧旛の瓔珞を一勢に照らしだし、荘厳な黄金の輝きに満たされる。それは、落ち着いた温もりのある輝きであった。この神々しい静寂の中、我を忘れてしばし佇む。
そういえば、この名状しがたい一瞬の輝きは、幼い頃から、この本堂で遭遇するものであった。それはまた、この時期の陽光のせいでもあろう。本堂にかぎらず、この時期の陽射しは、朝夕の冷え込みが身にしみるものにとって、実に穏やかで柔らかな光りであり、この光に触れるとすべてのモノが深みを増し、落ち着きを取り戻すように思われる。それはまた、母の温もりに似てどこか懐かしい。境内で、すっかり遊びに夢中になっていた頃、ふと、夕暮れの光にあって、急に家に帰りたくなるようなものに近かった。
如来の御前で祈りを捧げていると、ふと、ある思いが湧きあがってきた。
いまここで、祈りを捧げる「われ」というのは、ブッダからすれば一体、何者なのであろうか。
かつて、ブッダ(釈迦牟尼佛)が指し示されたことは、
「外界における〈変動〉は、過去と未来の境の〈今〉に位置して〈経過〉し、消失して、常に更新され、改まっている。ゆえに、外界は〈今〉静止したものとしては成立しない無常である。知覚原因(阿字本不生)そのものは外界にある静止した対境(対象すなわち実体)ではないので、我々には捕捉され得ない。したがって、表現されることもない」ということであった。
これは、対象を実体として認識し、生活をしているわれわれにとっては、いや、ブッダの教えをまじめに受け継いできた弟子たちにとっても、きわめて理解しがたいところであった。
それほどまでに、このブッダの指摘を理解し難くさせるものは、現実にこうして、補足され得ないところの「知覚原因」に向き合って、それをたとえ一時的にではあろうが、補足する「われ」があるからである。
しかし、この阿字本不生である第一原因を感受する「何か」が無ければ、そもそも実態としての外界は顕れない。広大なる宇宙も、極微の素粒子も、大自然も、われわれの生命も、森羅万象、万生万物としての実態が顕れないのも事実なのである。
実は、ブッダはこうした外界の実態を否定しているのではない。
「外界の実態は、先験(阿字本不生)より、過去と未来の境の〈今〉に位置して〈経過〉し、消失し、常に新な実態として更新される」という外界の実態における「実相」を指摘されているのである。この実相を見誤るものが、第一原因(阿字本不生)に向き合った「われ」であり、この「われ」が過去となり消失しているものを記憶に止め、蓄積し、表象(イメージ)化し、それを外界の「実態」に「実体」として投影し、その「実体」が時間と空間の中で変動し変化していると見誤る。そのような実際に留まってはいないものを実体視することは、虚像に執着し囚われて、ありのままの実相を観ていない。それは、誤りであり、それゆえに、苦悩するのであるとブッダは指摘されている。
それにしても、では、一体、阿字本不生である第一原因に向き合い、その実態に向き合う「もの」とは、そもそも、一体、何者なのであろうか。それを問わざるを得ない。
この日、朝の祈りの内にそれを問うていると、再び、不思議な思いが湧き上がる。
「すべての存在は、一つであることによって存在なのである。」
「その一つということを取り去られるならば、そこに有るものは存在し得ない。すなわち、何ものも一つのものとなっていなければ存在し得ない。田の畦のカエルも、草むらで頻りに鳴くコオロギたちも、喧しくかたらう小鳥たちも、花の歌を歌う合唱隊も、ガタゴトと朝一番に通り過ぎる列車やその中の人々も。そのすぐ上を一瞬にして通り過ぎる新幹線や乗客も。朝日に照らし出されるあの山並みも、大空を渡る大鷹も、山合を貫く高速道路、その上を激走する車たちも。その中で運転をする無数の彼らも、それぞれが一体をなしていなければ、存在はしない。いや、家でも船でも車でも電車でも、山でも森でも、田畑でも、岩や木々の葉でも、鳥やカエルや秋の虫でも、犬を連れ散歩するあの人も、カンカンなる踏切も、一切は一つということを欠いていては存在しないであろう。なぜなら、家も船も諸々のものも一つということを失えば、家はもはや家ではありえず、船も船ではありえない」
(ここでいわれる「一つ」とは、プロティノス(ローマ時代の哲学者205−270)の指摘する「一者」であるのか。であるとすれば「一者」とは何か?)と問うと、内なる声が響く。
「今、ここに現出する本不生という実相を外界の実態に反映する「われ」である」
(その〈われ〉とは個々別々の〈われ〉か?)
「さに非ず!一切を含む〈われ〉であり、それを〈一者〉という。」
(それは、すべてが「一つ」、「一者」において存在するという意味か?)
「そうである」
「〈われ〉とは、〈われ〉であるが〈われ〉に非ず。〈われ〉に非ざれども他者に非ず。自他に非ざる〈われ〉である。それはまた、第一原因を感受する〈われ〉そのものをさす。第一原因を感受する働きそのものをして〈われ〉とするのは、万生万物全てにすべてあらわれる〈自己感覚〉であるからである。この〈自己感覚〉、すなわち、阿字本不生に向き合う天与の〈われ〉がなければ森羅万象は顕れない。しかも、その〈われ〉は虚妄の時空を超えて「常に今ここ」である〈一者〉そのものである。」
ここまで来て、再び不思議な感覚に襲われる。
(今、ここで鳴く秋の虫、ゴーッと通り過ぎる電車も、その中にいる人々も。あの高速道路をひた走る車も、ドライバー達も。けたたましくさえずりながら立ち去るあの鳥も。田の畦道を散歩する人も犬も。あの山麓に散在する家々も、そこに暮らす人々も。頭にきて怒鳴る彼も。みな、「われ」という自己感覚を持ちながら、それぞれ異なる独自のいのちを生きている。この、人であろうが動物であろうが植物や鉱物であろうが、それぞれが持つ「われ」という自己感覚とその中身は、彼らと私とで果たして異なるものなのだろうか。自我の形成は確かに成長や発達段階により、あるいは、生まれ育った環境や時代によって様々であろうし、何一つとして同一のものはない。
しかし、この私自身がもつわれという「自己感覚」は、ほかのものが持つわれという「自己感覚」と異なるであろうか。もし、異なるとすれば、それは色づけられた仮面の自己であって、もしかすると、仮面をはずした素顔の「われ」は、彼の「私」も彼女の「私」も、犬や猫、ねぐらに鳴きながら帰るカラス達。ころころと鳴くコオロギも、風にざわめく木々の葉も、今ここの「われ」であり「私」であるなら、みな一つの「われ」ではないのだろうか。)
「そうだ。ゆえに、この〈一者〉である〈われ〉の祈る行為は、今ここにすべての〈われ〉の行為となっている。それは時間と空間を越えた〈われ〉である。」
今朝の祈りとはまさにそういう祈りであった。
萬歳楽山人 龍雲好久