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作成日:2014/03/29
心の通信H26・3・17《二のない一を見るもの》

 前回は現代科学における万物の理論というものを門外漢でありながら、取り上げたのは、物理学や数学、天文学における最先端の理論が、ブッダ(釈迦牟尼佛)親説の「阿字本不生」に迫るのではないかという、小生にとってきわめて興味深いものがあったからである。そこで問われていたのは単なる現象の枠内だけの経験的科学だけでは解明できない大宇宙・大自然界の不可思議なる現象に直面した科学者たちの生涯をかけた探究の真摯な姿が繰り広げられていたからであった。彼らの、これらの難題は自然科学的に必ず解明できるはずだという探求することそのものへの篤い思いがあったが、それはまた、神学者や宗教者にとっては、神への挑戦といった由々しき問題で、まさに神を冒涜する人間の傲慢さにほかならないと激しく危惧せざるを得なかった。そして、現代は産業革命やエネルギー革命、情報革命と称して、たえず侵略と戦争を繰り返し、地球存続、生命の存続を最も危険な状態にさらしている。これこそが愚かな人類が自らを滅ぼしかねない証拠ではないかと警鐘を鳴らすのである。

 だが、しかし、産業革命以来、こうした宗教と科学は真理をめぐって激しく対立してきたかのように言われるが、よくよく注意してみると宗教は科学による文明の利器をえて、逆に、より強固な宗教的世界侵略の道具として利用してきたのではないだろうか。

 まさしく、人類の精神構造の愚劣さにメスを入れなければ、狂信盲信の異常性を持つものが、科学によって生み出された核爆弾という凶器を所有する危うい現実が絶えず人類を震撼させ続けている。彼らには、必ず、宗教やイデオロギーや信仰などといった自分に好都合な大義名分が見え隠れしているのである。

 ここまで来ても、人類は自らの精神構造の愚劣さに気づかないものなのであろうか?

それとも、そのようなことは当たり前の人類の性で、今更、指摘されなくてもわかりきったこととでもいうのであろうか?

 だが、それでは、人類の絶望的なまでの悲痛な叫びに目をつむること、即ち、自己欺瞞にほかならない。嘆きや悲しみに麻痺し、他人ごとにする自己欺瞞に陥った精神の末路は、孤独と崩壊である。

 個人的にも集団的にも、社会的にも国家的にも、地球規模的にも、人間が関わるあらゆる分野で、この「自己欺瞞」による争いと破壊の火種を取り、滅亡の種をまき散らしている。

 自己欺瞞と言うのは「自分自身を欺く」ということなのであるが、その、自己欺瞞の最たるものが自己逃避のための何らかの盲信・狂信であろう。「自分に自信のないものほど、経験や人の教えに自分を超えた力と価値と同化することで、ダメなもの、社会が、世界がマシなものとなっていく」と信じているが、ダメなものからマシなものへというなんでもない当たり前の指向性の奥に巧妙な自己欺瞞が潜んでいる。それに気づくものは少ない。

 どうだろう、大義名分や信条・モラル、あるべき姿、目標・・・・が、平和で安らぎに満ちた、人類一人一人がいきいきとした世界を導き出せたであろうか。いや、そういった旗を振り、号令をかける大義名分が今日までの人類の歴史の中で何をしてきたか、それはあまりにも歴然としているのではないだろうか。

 こうした欺瞞性こそが、今日の不平等な社会を増長してきた張本人である。自信のないもの、自信に満ち溢れたもの、不幸なもの、幸せなもの、差別するもの、虐げられるもの、貧しいもの、富めるもの、成功するもの、敗退するもの・・・と、これらの人類の病的なまでの自我が自己の内部においても、家庭においても、地域社会においても、学校や職場においても、グループや組織集団においても、国家においても民族においてもたえず侵略と侵害の渦を巻いた戦いを繰り返している。

 いったい、「誰」がそんなわかりきった愚かしい世界を展開しているというのだろうか。他者であるか。しかし、他者を意識する限り、自他の戦いは必然である。そこには自己の利権が優先され、それを侵害するものや異端な者を排し、変革や革命を起こすことによって、自己の望む世界を拡大しようとする。まさに、血みどろの戦いを堂々巡りに繰り返す。徒党を組んで、権力を笠に着て突き進もうとする背景には「ひとり」の人間の脆弱性があるのではないだろうか。「自分」ほど力がなく、何ほどのことも出来ない。自分じゃなく、そういった無力な自分たちを束ねて強靭にする何かを得て確信することが必要だと。まさにこれが自己欺瞞に陥るところの当のものである。

 実は、筆者がここで繰り返し取り上げようとする自己欺瞞の問題は、この「自分とは何か」という自己意識を持つ「全てのもの」への問いがあるからである。もちろん、ここで問題にしているのは「自分とは何か」という観念や認識論のたぐいではない。まさしく、「いま、ここで、見る」もののことである。そこでは「見る」こと以外には無く、「誰が」という認識の主体を論ずることはない。なぜなら、見ることを通して、脳や感覚や記憶に蓄積された経験は確かに「自我」を形成し、一一の存在の主体性を形成するのであるが、その経験や認識による主体性こそがが「あるがままに見る」ことを妨げ、条件付け、色を付け、差別を生み、分離と争いの根拠となる自己欺瞞にほかならない。「あるがままに見る」とは認識の経験主体によって見るのではないということを理解しなければならない。

 では、認識の主体性無く見ることは可能であるのか。「見る」が先であり、「認識や経験」が後だということがはたして可能だということか。認識の個別の主体性がない、即ち、自分がないことで見ることは、そもそも「見る」ということを成り立たしめるのであろうか。それとも、個別の認識の主体無く「見る」とすれば、それは誰か?

 ここからが重要な事である。認識の主体である自己中心性は「そこからここへ」という 「時間と空間」を幻想する。

 そうでないと、瞬々に現れるものを認識できない。「いつ、誰が、何処で、どのように」という認識による経験に依らなければ世界を把握できないと考えているが、しかし、その動きは常にゴテゴテである。いちぶ、経験により予測し得ることは可能だが、予測にすぎない。つまり、ブッダがいうように、映しだされたものは、過ぎ去り終わってしまったものの記憶、残像にすぎない。それを実体視して、あたかもそれが現実に在ると認識していること自体が幻想、虚妄を生む自己欺瞞のはじまりなのである。だが、それを外した「見る」ものとは一体何であるのか。

 これを理解するヒントが「いま、ここ」なのである。マクロな大宇宙やミクロなヒッグズ粒子に至るまで、それはたえず「いま、ここ」であり、「いま、ここ」には、実は「時間や空間」の条件付けは働いていない。一人の人間にとってどんなに遥か彼方の無限の大宇宙の果であろうとも、あるいはどんなに測りがたい微小な超微粒子の世界であろうとも、世界はひとりの人間と同時に「いま、ここ」なのである。

 「私」がここから歩いて10分かかる「駅」、私を中心にしては10分後のいまの駅にしか立てないが、では、その10分の後に駅が出現するのではなく、たえず、歩いている私いかんに関わらず、駅は「いま、ここ」であることに変わりはない。駅に向かっている私は次の瞬間、暴走した車にはねられているかもしれないし、駅はタバコの火の不始末で燃えているかもしれない。全ては「いま、ここ」に瞬間としてたえず新しく顕れている。では、その「いま、ここ」のものは単に瞬間瞬間のなんの因果とも無関係な、個々別々の全く時間や空間に無関係なバラバラの事象にすぎないのであろうか。因果を言うなら、原因と結果の無限の連鎖、そこにはなんの絶対もなく、因果応報、相互依存性の単なる無機質な連鎖という虚妄なる「空」の無神論論に陥るか、極大や極微の万物を生み出し、大宇宙を統べる絶対なる「神」という因果を支配し超越する唯一絶対者の一神論に陥るか。しかし、いづれも自己欺瞞がつくりだした虚論にすぎない。大きな過ちの始まりなのである。

 そこで再び問う。「いま、ここで見るものとは誰か」。

 (さあ、紙面に限りがあるから、急ぎ語ろう。)それは「全一」なる「一者」であり、その「一者」とは「二のない一」であり、それを見ることも知ることも、覚ることも至ることも出来ない。なぜなら「全ては一者」に他ならず、見る者自身であるからである。眼は眼そのものを見ることが出来ないように、刀は刀自身を切ることが出来ないように、「一者」は「一者」自身を見ることはない。では、「いま ここで 見る」のは誰か。「見られているもの」とは何か。見られるものは「虚妄」、見るものは「一者」にほかならない。

 人間に限らず、あらゆる生命は一つ一つの独自性を輝かせている。こ独自性の要にあるものが、「われ」や「自己」とい感受性や相の要となる「一者」自身である。この森羅万象一切の万生万物に遍在する自己の感覚としての「一者」である。

 それは自己感覚として働いているが、個々別々の孤立的自己感覚ではなく、「全てに通ずる」自己感覚である。孤立無援の孤独な自己感覚ではなく、全体の「一者」に通じ、しかも、自立自尊の「一者」である。森羅万象、万性万物、個々のものは、すべて「独りあるものとしての一者の全き存在」であると同時に「二のない一としての全体」である。

 ということは「どんな顕現も一者として完全である」というこである。「素粒子」であろうが「原子」であろうが「分子」であろうが「鉱物」であろうが「植物」であろうが、「動物」であろうが、「魂」の意識体である「エーテル体」「メンタル体」「アストラル体」「コザール体」「ブッデイ体」であろうが、「一者」として完全に独り立つものして顕現している。それ故にこそ全ては顕現しうるということである。決して断片化された部品の集合体ではないということである。

 全ては「一者」から「生み出されたもの」であり、「一者」は絶えず生み出し続けるものであるというのは虚妄にすぎない。生み出されたものは、ブッダが示されたように絶えず留まることなく消失することで更新されるものである。時空に留まるものは断片化された抜け殻であり、虚妄に過ぎない。

 だが、小さな虚妄なる我々にとって、宇宙がいかに広大無辺なものであろうとも、「全てがいま」なのである。たとえ何億光年先にしかたどり着けない遙か彼方の宇宙であろうと、「常にいま」である。なぜなら全ては「二のない一」即ち「一者」である。

 「一者」は全てに同時にいま顕れ更新し続けるものである。

 この阿字本不生の「普遍」である全てに顕現し続ける「一者」こそ「見る」ものにほかならない。

 嘆きも悲しみも喜びも「一者」なるが故であり、それをあるがままに見ることにこそ「普遍の一者」が在り、そこから不生の仏心一如も自らの行為が生まれる。

 自己をもって現実を直視することこそが光明であり、一切が「自身の光」であることこそが真の宗教的行為である。

萬歳楽山人 龍雲好久