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作成日:2014/11/20
心の通信H26・11・17《内観のすすめ》

 今から35年ほど前、奈良県大和郡山市の吉本伊信師をお訪ねし、内観を行い、ご指導を頂戴した。

 そこでの内観は、三尺四方の衝立の中で一日15時間半、一週間、徹底して自己を見つめることだけに集中するものであった。手洗いと入浴以外は衝立の中からでない。三度の食事も衝立の中。つまりは、四六時中内観に徹するというものであった。

 この内観は、幼い頃から現在まで、年代を区切り、自分の姿を映すための対象者を絞り、先ず、母に対する自分、父に対する自分というように親戚兄弟友人知人となど自分の人間関係を通して、自分のあるがままの姿を観察する。吉本伊信師の内観のもっとも特徴的なことは、その自分調べのとき、内観を掘り起こす道具に「お世話になったこと・お返ししたこと・迷惑をおかけしたこと」の三つの視点で自分を見つめるのである。

 これによって吉本伊信師が提唱する内観法は自己変革や回心を劇的にもたらす普遍的偉大な内観法として、今日、定着している。精神医療関係、教育関係、矯正施設関係など、人の心を扱う施設などに積極的に導入され、多大な影響を及ぼしてきた。内観学会などをとおして様々な研究が加えられ、世界的なものにまで発展している。

 それは、ともかく、どんなに発展しても、そのことは、普遍的な広がりを意味するもので、内観そのものが変容しているのではない。

 先ほどの、自身のこれまでの「あらゆる人間関係を自己を映す鏡」とし、「世話になったこと。して返したこと。迷惑をかけたことを自己の記憶を掘り起こす鍬」として、自分自身を調べ、見つめるのである。

 この内観のすごいところは、たとえ内観者が、聖職者であろうが、裁判官であろうが、人間国宝であろうが、億万長者であろうが、国王であろうが、犯罪者であろうが、ホームレスであろうが、破綻者であろうが、死に瀕しているものであろうが、老若男女を問わず、この内観のまえでは、そのような肩書きや名誉や実績、勲章、あるいは極悪人非道のレッテルなどは一切通用しないのである。著名人も無名もない。成功者も失敗者もない。あるのは内観者があるがままの人生を観察する「眼」だけである。

 そして、内観がもっとも必要とされ、しかし、もっとも困難なこととされるのが、この自身が本来具足して(備わって)いる「心眼」によって、心の曇り、歪みによる、人生の苦悩と混乱に気づくことなのである。

 だが、この内観に対して、人がもっとも勘違いをする根本的な問題は、苦悩や失敗や混乱からの脱出や、解決策を見いだそうという動機により内観に入ることである。よく、自分もそうだが、他人にも、人格改造を願い、無能な人間から有能な人間へ、あるいは、ダメな人間からマシな人間になるために、この内観を利用することである。結果を期待するこのあり方は、かえって内観を妨げる。たしかに劇的変容を遂げるかに見えることもあるが、所詮、自覚ではないので、もとに戻るばかりか、却ってたち(性質)が悪くなる。確かに、導入の動機は何でもよいかもしれない。内観していくうちに気づくこともあるであろう。だが、忘れてはならないのは、この「内観」は「後も先もない状況に立つものである」ことである。つまり、この内観は「崖っぷち」「今際の際」「ここから戻ることもできないし、明日を期待することもできないはない状況にたたされる」のだ。すなわち「死の瞬間」に立つのに等しい。先を期待できない絶望の淵においこまれて、初めて内観となるのである。

 そんな、恐ろしいことじゃ、とうてい内観できませんと思われかも知れないが、あなたも私も間違いなく、いつでも、どこにいても、刻々、「死」に直面して生きているいのちであるのだから、決して、内観は他人事ではない。これが現実である。

 とにかく、尊い人生、一瞬一瞬の内観をお勧めしたい。

萬歳楽山人 龍雲好久