ある看護師のドキュメンタリー番組で、自らが病に冒されつつも、人生の全精力を傾けて取り組んできた「現場にこそ真実がある。その現実に目を向けなければ大切なことは見えてこない。机上の空論ではだめ!」という凄まじい生き様を映し出していた。それは自ら末期ガンの苦悩にさいなまれつつも、自分のあるがままの姿を取材することを許し、「机上の空論ではだめ。苦悩する現場にこそ真実はあるのだから、今、ここの現場を見なければなにも見えてこない」と必死に見舞いに訪れた医師や自治体の長、看護師に向かって、復興に欠かせない支援について、病気の苦しみにあえぎながら、激しく、明晰な精神力を持って、東日本大震災被災者の現実に心を馳せ、いろいろな方策について訴えている一人の人間の壮絶なまでの真剣な生き様が映し出され、驚愕を覚えざるを得なかった。
同じ頃、やはり報道で日本人を人質にしたテロリストの要求がニュースで突然、流れ、社会は一変に極度の緊張状態にさらされることとなった。現場における対応はかなり大変であったろうが、無念なことに、日本人2名とも殺害されるという痛ましい最悪の結末であった。そのうちの一人は、やはり、「現場にこそ真実がある」と、紛争地域に暮らす人々の困難で悲壮な実態を取材し、世界に向けて、戦争の愚かさ、貧困や差別の実態を目の当たりにして、これを何とかせねばならないという止むに止まれぬ激しくも明晰な思いが、現実的で有効な人道的支援を行うには何が必要かを実際の課題に取り組んでいた。その決め手は、貧困を解消し、弱者である子どもたちを護り、自立を促す教育こそが、この地域に人間らしさを取り戻せる最大の支援策であると訴え続けた活動家であった。が、テロリストにかかれば、そんな彼も彼らの要求の片棒を担がされ、挙句の果てには見せしめにと、いとも簡単に葬り去られてしまった。絶句するしかなかった。
これも、テロリストという人類社会のガンのような病巣の根治に必要なことはと、絶えず現場の真実に目を向けようとした者の壮絶なまでの戦いの最後の人生であった。
我が国においても、少年による凶悪な殺人事件が続き、人の命の脆さに誰しもが戦慄を覚えていた。
そんな折り、「ばっちゃんありがとう」と、日本のマザーテレサと慕われている八十過ぎのおばあさんに対し、もう、どうにも手の付けられなかった非行少年たちが、その「ばっちゃんに世話になったおかげで俺の人生は全く変わることが出来た」と、みんなで感謝の気持ちをサプライズする番組が流れた。
私が住む町の総人口の何倍もの人が住む団地の中でのことだった。
よたっている少年が、ここ数日なにも食わず、空腹を紛らすため、深夜うろつき回っていることを聞いて、「この子等みんな育ち盛りなのに腹を空かせて、青白い顔をしている。」といって、我が家につれてきておなかいっぱいご飯を食べさせてきた女性の話しであった。かれこれ20年で300人ほどの少年が、このおばちゃんの世話になりご飯をいただいて成長したという。おかげで、彼らは皆、今では立派な成人になり、仕事に就き、妻子を得て幸せな家庭を築いている者もあった。若い頃の写真を見ると、皆、人を信じられないといった三白眼をして、奇抜な格好をした手の着けられない非行少年であった。家に帰っても誰もいないし、飯もないからといっては、「ばっちゃん、腹減った」と言って上がり込み、ばっちゃんの手料理をパクパクと丼3杯ものご飯をぺろりと平らげている。帰ってもしょうがないからと何ヶ月もばっちゃん家に泊まって過ごした子も多い。温かい食事をたらふく食べると、皆、いい笑顔を見せている。穏やかで素直な少年に戻る。無口だった者も色々話しだし、それをばっちゃんは、ちゃんと聞いてくれる。ばっちゃんの家はそういう子供らで溢れかえり、みな楽しそうに団欒している。これは奇跡に近い。やはり、犯罪や非行、テロや過激派などの反社会の暴力集団の温床となっているのは、激しい貧困や飢餓である。
一見、豊かな国のように見える我が国においてさえも、人の見えないところでの貧困はかなり深刻である。このような貧困が孤独と孤立を生み出し、犯罪を生み出すのは、今も 昔もこれからも見逃してはならない問題なのだということを世界中がつきつけられている。
しかし、世界はもっと狡猾で恐ろしい。ばっちゃんのような普通の人の親切ならいざ知らず、思想的、国家的イデオロギーや神の信仰などの仮面をかぶった暴力的搾取集団にかかれば、本人の憎悪や反発、怒りを巧みに利用し、甘い汁で誘いこむ。一度、取り込めば、本人の弱みを握り、鞭と飴、恐怖と安楽、洗脳と全く非人格改造で、自縄自縛に追い込み、抜けることは不可能に近い。彼らは取りつかれたようにその組織の一員となり、それ以外の選択肢はなく、著しく思考も行動も縛られている。恐怖社会である。
こうした過激派やテロリストが掲げる、神の名のもとの聖戦、イデオロギーによる聖戦、民族紛争、歴史の名を借りた侵略・・・・果てるともない愚かな行為をどこまでも続けているというのだろう。
これを終わらせることは果たして可能であろうか。
宗教や信仰というものは、人類発祥とともにあっただろう。
人類の発祥は万物の進化の一つではあったが、人類意識の進化は、また、個別化への進化でもあった。この世に生を得た人間が、自己と他者の未分化の意識状態から、様々な成長のプロセスを経て、自我を形成し、自他の関係性を通じて、生老病死の変異と自我の内外に常に突きつけてくるあらゆる現実の喜怒哀楽の中で、不安と恐怖、大自然界への畏怖、差別や矛盾への激しい怒りと絶望・・・そういった、やり場のない人間の気持ちが、宗教やイデオロギーに向かい、それによって安心や安楽、絶対なるものへの希求を通し、様々な信仰や宗教が排出されてきた。
だが、それは所詮、愚かな人間のでっち上げた、きわめて未熟な宗教や国家に過ぎないことを人はなかなか理解できない。排他的盲信狂信はテロの温床であり、しかも、閉鎖的集団化し、やがて、サリン等の事件を巻き起こしているのであるから、こういった自我と神の権威を同一化した狂気性の集団は、身近にいくらでも潜伏している。その欺瞞性の本質を見抜くことは、はなはだ困難だ。必ず政党や国家権力を取り込もうとしたり、対峙したりして利用している。ひとはそれでも自己の都合で、その爆弾を飲み込んでしまうのである。そして、自爆せざるを得なくなる。おぞましくも浅ましい光景である。
人がでっちあげた宗教や国家イデオロギーの内容よりも、その宗教やイデオロギーに依存している人間自身の問題として理解が進まない限り、当分の間、この葛藤にさいなまれることであろう。
そもそも、ゴーダマシッタルタ釈迦牟尼佛は絶対者や神々を信じる「宗教」の欺瞞性を見抜けと、警鐘を鳴らされ、人々の欺瞞による不平等な差別からの解放を促されていた。その仏教も、一介の宗教に成り下がったのだろうか。小生を含め欺瞞性を指摘するどころか助長すらしているのではないかと甚だ苦しい。
人間が希求する権威主義的一神教やイデオロギーは全くの自己欺瞞である。これに目覚めない限り、搾取する者と搾取される者とは同質で、立場が変われば搾取する者が搾取される者となり、搾取される者は搾取する者に代わる。両者とも革命や世直し、テロを標榜しようが、権威による暴力という手段が搾取の本質を暴露している。人類は人類の自己欺瞞性に目覚めない限り、死の恐怖を盾にした殺戮の暴力からは解放されることはないだろう。
個人においても、集団においても、国家においても、宗教や信仰においても、暴力による搾取という欺瞞と狂気が横行する落とし穴がある。そこは底知れない恐怖の地獄である。
この狂気を終わらせることができるのは欺瞞で固められた宗教でも信仰でも理念でもない。現場に立つ者の苦悩の叫びを直接聞く者が非暴力という革命を起こすのだろう。しかし、非暴力とはガンジーのような無抵抗の抵抗や非暴力による革命運動といったスローガンというような「非暴力という暴力」を以て革命を起こすのではなく、暴力の本質を見抜き、人類が暴力を全く終わらせることである。これはどんな革命よりも困難である。
ブッダやイエスや聖人君主、偉大なる指導者を排出しておりながら、未だに殺人や戦争の暴力にさいなまれている。非暴力の革命は未だ起きていない。それどころか世界は千年王国などといった虚妄の宗教の搾取と暴力の脅威に晒されている。この世界の現実を見据えて、革命を起こせるとしたら、一体誰であろうか。
皮肉にも日本人はその意味で選ばれた民なのかもしれない。この悲惨でおぞましい現実の苦悩の中から、まず、人類はおぞましい自己欺瞞と搾取性に目覚めるしかない。それができるのはわれわれの自身にほかならないのだろう。
目覚めた者はすでに動き出している。
萬歳楽山人 龍雲好久