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作成日:2015/05/30
心の通信H27・5・19《清 流(生の全体性)》

 庭の片隅にまいたお下げものの仏飯をついばもうと小鳥たちが子連れで、元気いっぱいである。その声に誘われて、窓をそっと開けると新緑の光と風が心地よい。今年は今頃からいつになく暑い日が続いているが、朝晩はまだ冷えが残る。ようやく陽気のよい季節を迎え、空はぬけるように青い。突然、拡声器の号令が聞こえ、子供たちの運動会の練習が始まった。子供たちの歓声が、遠くに聞こえる。

 近くの乾いた水路に水が流れはじめた。そろそろ、田に水を引くころだ。

今年は雨がなく、田植えも遅れぎみで、なるほど、境内や墓地の草々もいつものいきおいが失せている。

 とはいえ、ひとの暮らしの中に古くから張り巡らされている用水路にも清流がながれてきて、小鳥たちが水を飲む。とうとうと流れる水音に万生万物が潤を感受している。

 田畑にも街中にも張り巡らされてきた水路は日本という農耕文明の礎であった。人々はこのかけがえのないいのちの源である治水を何よりも大切にし、絶えず清流を確保すべく、協働して、水路を清潔に保ってきた。

 しかし、今日では、人間の排出する環境汚染の問題もあって、上下水道が整備され、水路の代わりに、地下に走る水道管と下水管に変わった。昔からの水路は干からびて、ゴミの掃き溜めと雨水による水たまりがどぶ化している。

 しかし、今頃になると田に水を引くため、ダムから堰を通って水路に一気に水がはいってくる。それが急なものだから、あちこちの水路の曲がり角で、詰まっていたゴミが水と一緒にあふれ出し、水浸しになって、大騒ぎになる。

 それでもこれらの水回りを気にする者は、杖を突いて歩くようなお年寄りばかりになってしまった。水路のゴミを掻きだし、水を通してくれている。そこには若者たちは見当たらず、彼らは連休の家族サービスで出払っている。

 大震災や原発事故で気づいたことは、人々の暮らしがいかに大自然とともにあることの大切さであった。我が国のように山紫水明、瑞穂の国、清澄なる大自然に恵まれた国土は地球上他にない。そこではぐくまれてきたものは自然とともに生きることそのものであった。先祖から代々、子々孫々にわたる養生繁栄を営み続けるための血と涙の汗の結晶でもあった。神々を敬い、先祖を崇い、感謝と報恩の至誠をささげる、このありようは、神々も先祖も天地自然の万生万物みなすべて、「生の全体性」として一つであることを了得してきた高い精神と深い文化の醸成であった。

 これを壊したのが、皮肉にも黒船来航以来の文明開化であった。しかし、この土壌があってこその、世界に類例を見ない革命と文明開花でもあったのである。まこと、新生創造は虚無からおこるものではないし造反でもない。ほかの文明の模倣からくるものでもない。その時代時代の今を生き抜くものの全く真剣で、新しい生命、新しいエネルギーのほとばしりからくる。この新しいエネルギーこそ、かの水流のようなものであろう。絶えずこんこんと涌き出る清流である。

 いま日本が直面している危機、あらゆる課題は、地球や世界の課題と一体であり、その課題に直面し、まったく新しいエネルギーを世界中に開花させていく大きな力を先祖代々培ってきた民族である。その民族が、今という最も激変で過酷な時代にこそ、このこんこんと湧き出ずるいのちの清流、新生創発のエネルギーを枯らすことのないよう祈りたい。いや、このエネルギーは、どんな過酷な試練に見舞われようと枯れることはない。

 なぜなら、この国に生まれ、培われ、受け継がれているものは、単なる民族主義でもなんでもない、まさしく「生の全体性」、地球人類がいま必要としている清流、生のエネルギー、すなわち阿字本不生に他ならないからだ。

 我々一人一人が全身全霊をあげて直面させられていることそのものが、世界が、地球が、神々が直面することと一つなのである。 

萬歳楽山人 龍雲好久