ブッダの境涯で最も肝心なことは、刻々の今はかけがえのないまったく新しい一瞬であるということである。
もう、400年近く時を刻んできたこの寺には、小さな池があって、いつの時代にも子供たちの豊かな遊び場であった。
今でも、こうして、子供たちが遊びに来ていて、賑やかである。この寺は塀も山門も何もない寺なので、どこからでも境内に入り込める。町場の真ん中辺にあるので、通学路であったり、墓参の道であったり、犬の散歩コースだったり、買い物帰りの道だったり、通りすがりの乞食が、朽ちかけた境内のベンチに腰を掛け、ぼんやり子供たちを眺めていたり、大きな公園のようなわけにはいかないが、子供たちにとっては、寺全体が遊び場になっているらしく、かくれんぼや鬼ごっこをして駆け回る子供の姿は、ずっと変わらない。
変わらないように見えるけれど、今遊んでいる子供たちは昔の子供たちではなく、今の子供たちである。大震災直後は放射能の問題で、子供の姿は全くなく、異様であった。この時は不思議に子供たちの歓声もなかったが、スズメたちも全く見当たらなかった。ただ草木のみが異様に元気であった。境内の除染も済み、池の除染も本来は除染の対象ではないのだが、子供たちが思いっきり遊びまわるところなので何とかしてほしいと、池の水を抜いてカラカラにして泥の放射能の高いところを削り取ってもらった。おかげで、ザリガニが繁殖する泥池であったのだが、今は、とてもきれいになった。誰かが、錦鯉の幼魚をたくさん放してくれたらしく、たくさん群れて泳いでいる。悠然と泳ぐ姿は見ていて気持ちが良いのだろう、車いすで歩く不自由なお年寄りも、頻繁に訪れ、無心に魚や遊ぶ子供たちを楽しそうに眺めている。幼子を連れた母親たちが、しばし、立ち話に花を咲かせている。ややくたびれたおじいさんがつかれてしまった幼子をだっこして家に帰ろうとしている。電線に止まる小鳥たちのように、本堂の軒下の犬走のところに一列に座って、何やらみなゲームに夢中である。権現堂の軒下では中学生たちが大声で楽しそうにおしゃべりをしている。境内には屑籠はないのだが、ごみを散らかしたりはしない。ついつい、暴れすぎて手水鉢のところの水ではしゃぎすぎて、大人からしかられたりもするが屈託がない。
おお、なんと生き生きとした一瞬なのだろう!これらは時々刻々に新しい現実である。
ところで、過去の映像や音の再現は記録に過ぎず、実相ではない。過去そのものが戻っているのではないのだ。試しに、今という瞬間に自分がここと別の場所にいることができるであろうか。今ここにいる君が、一瞬たりとも一秒前の過去に身を置くことができるであろうか。また、一瞬たりとも一秒先の未来に身を置くことができるであろうか。
ブッダは語られる。過去・現在・未来は認識上の記憶から組み立てられた虚妄であると。実相は、常に「今 ここ」に新たであると。
われわれは脳の働きにより、どうしても認識に基づく時間と空間を外の世界に投影し、それが事実であると思っている。だが、実相は、今、ここで現れを感受した瞬間、それは同時に過去として消失する。その去ってしまったもの、すなわち、感受されたものの記憶によって組み立てられた世界を外界に表象化して、あたかもそうした虚像を実像として認識し、まるで、実体が世界を形成していると見誤るのである。
しかし、ブッダの根本的視点は次のように奥が深い。
「滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。
一たるものでなく、区別のある多でない。来るのでなく、去るのでない」
まず、ブッダがわれわれに指示されたものは、「先験から今に経過し、消えてしまうという常住ではない実相」であると。
では、われわれが感受し、認識し、組み立てて見ているこの現象世界は、本当に根も葉もない幻影なのであろうか。
ブッダはそうではなく、この現象界は無常なるものであり、それが実相であるとされる。無常なるものを記憶に留め、認識を重ねることから、世界を実体視しそれに執着する。その執着が自我を形成し、幻想と欺瞞を生むとされた。ゆえに、欺瞞は我々の認識の側で起こると指摘されたのでる。
このブッダの教説はなかなか理解しがたいように感ずるが、実はこれほど平易なものはないのである。つまり、それは、「現実世界の実相は絶えず新しい」ということに他ならないのだ。
今の事実は過去のものではなく、常に新しい事実として今である。感受は時々刻々として、今である。それは、我々が想像する時空による虚妄の世界とは全く異なる。
素粒子レベルの極微の宇宙であろうと、135億光年先の大宇宙の果てであろうと、その時空を生み出すものは、それを感受し、認識し、数学や天文学・物理学が計算上仮定する数式でしか表現できない虚妄なる世界なのだが、しかし、本当は、極微粒子から極大宇宙に至るまで、すべては、同時に、今として、顕現し、常に新しい。すべては、今に新たなる現前であるのだ。
時間と空間に捕捉されたわれわれの常識から観れば、世界という実体の現象が、常に変動して、生滅を繰り返していると見えるが、それは認識に基づいた虚妄なる見解である。
われわれの刻々に感受する現実は、常に今なるもので、今、感受するもの再現でも、繰り返しでもない一回限りの唯一無二の全く新しい瞬間なのである。
現象世界を見る限り、確かに、変化しないものはない。瞬時に代わるものもあれば、時間をかけて、ゆっくり変化するものもある。だが、昨日のそれは終わっており、今日のそれはまったく新しいという厳粛なる事実から逸脱することのないように。明日はまだ生まれていないし、過去は過ぎてしまって消えているのだ。
君も私も世界も、あの池の周りで遊びに夢中の子供たちも、まったく新たないのちとして、今を刻々に生きている本不生のいのちであるのだ。刻々に、今を生ききる、かけがえのないまったく新しいいのちの輝きなのである。それこそが本不生の実相といえるものなのであろう。
ブッダは「本不生といういのちの源流における実相は、いつでもどこでも、全てが同時に、今、全く新しいという事実に向き合い、今を大事に生きなさい」と示しておられるのである。
萬歳楽山人 龍雲好久