コオロギの鳴く音に、秋の夜の深まりて、独り没弦の琴を奏でる。
この寺の鐘楼門の脇に姿のよい松の木があって、その根元に「二十三夜」と書いた古びた石塔が数基あって、往事の月待信仰の風情が偲ばれる。
不思議なことに、この松の木が、ついこの間、突然、枯れてしまった。危険なので、その枯れた老木を切り倒さざるを得なかったが、年輪を数えてみると250を有に超えていた。
根元に埋もれて目立たなかった石塔が寂しげに何かを語りかけているような気がした。
一体どのような人々が、どのような気持ちで、どのように祈っていたのであろうか。石塔には梵字の「サク」という勢至菩薩の真言が刻まれており、その下に二十三夜と彫られている。女性の間に広まっていた信仰らしいが、今日、そのことを知るものはいない。
少し調べてみると、ものの本に、次のように書いてある。
18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」を組織した人々が集まって、月を信仰の対象として精進・勤行し、飲食を共にしながら月の出を待つ、月待ちの行事をしていた。その際、供養のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが、二十三夜塔である。
崇拝の対象として十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜までは、観音を本尊とし、二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀っている。
勢至菩薩は、智慧の光をもっており、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれる。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まっていた。
「道祖の神と石神様たち」 西川久寿男著 穂高神社
月待ちといえば、今日の我々が知るものは、十五夜。縁側に月見団子や秋の草などをお供えして、満月に見とれ、心静かに物思いに耽ったりした記憶が新しい。二十三夜月は陰暦の23日の下弦の月。真夜中に東の空に現れる月を待ち望んで、供養と祈りを捧げた古の人々はことのほか月に思いを寄せていたのであろう。
下弦の月は、三体の月になる。それを拝めば救われるという信仰があったともいう。その三体の月に、昔の人々は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)の顕現を感じていたのであろう。それはまた、この寺に祀られている補陀洛阿弥陀・正徳阿弥陀、そして大日の三如来の合体である「紅玻璃色阿弥陀如来」を暗示するものでもあろう。下弦の月は彼岸へ導く小舟、那智に伝わる補陀洛(弥陀・観音浄土)渡海の小舟でもあったのかもしれない。
確かに、ふと月の光を仰ぐときに感ずるなんともいえない心の清涼感と静寂感は今日でも変わらないものだろう。しかし、昨今は、そのような月明かりを楽しむことはめったになくなった。合理主義、産業経済至上主義の文明が、情報網の発達を伴い、昼夜なく動き回る眠らない文明と化し、その文明に隷従せざるを得ない人々の心には、全く余裕がないのかも知れない。常に、情報の集積と分析と結果を出すことに余念がない。一方それになじまない人々は娯楽や携帯やメールで自慢話や評論や噂話に明け暮れる。常に思考を巡らせ、自己の価値をアピールしないことには存在意義を認めてもらえない社会からは、こうした月待信仰は生じないのだろう。
実は、この寺でこうした月待信仰があったことを知ってか知らずか、ある方が、この寂れたお寺にお参りがしやすいようにと、東屋の寄進を願い出た。そもそも、その話が面白い。バーベキュウでもして楽しめる小屋があれば、寺も賑やかになるだろうというのである。しかし、実際に出来上がったものは、六角堂かと見まごうばかりの実に美しく、見事な東屋であった。まるで、二十三夜の月を愛でるために建てられたものである。あまりにも美しい六角堂の東屋に『月待堂』と命名させていただき、併せて、枯れた松の木の切り株を残してもらって、二十三夜の三体の月、すなわち阿弥陀三尊の梵字を記し、本堂にお祀りし、地球の平和と安寧を祈ることにした。
しかし、現実には、この寺の月を愛でる方角には、東北新幹線の架橋が走り、視界が妨げられている。だが、この『月待堂』からは、それでも、その架橋の合間に、東の霊山の頂きを見下ろすのである、二十三夜月が山の頂にかかることを妨げないのである。
さてさて、暇があったら、この二十三夜に、しばし、残務を止めて、お互いにおしゃべりもやめて、テレビやラジオを止めて、思考や感情のおしゃべりもやめて、灯りを消して、心を澄ませて、月を眺め給え。そうすれば、確かに古人の感じていた世界が蘇るであろう。
月や星灯りの闇の深さのなんと豊かなことか。秋の虫の鳴音のなんと美しく勢いがあり、かけがえのない生を謳歌していることか。
秋の虫の呱々の声を聞け。いのち謳歌するすべての声を聞け。刻刻の今を大切に全うし尽くす呱々の声は、大合唱だが、決して本不生の静寂を妨げることはない。
萬歳楽山人 龍雲好久