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作成日:2015/11/30
心の通信H27・11・18《一者と遍在のホロン構造》

 日本の科学者がノーベル賞を相次いで受賞している最先端の物理学や天文学が解明する万物の理論は、宗教や哲学に親しんできた我々にとってもその真理を解明するフィールドがきわめて接近しているように感じられ、きわめて興味深いものがある。

 特に、科学がきわめて地球上の限られた世界の探求範囲から大きく飛躍し、宇宙の始原から終焉を扱う無限大のマクロ宇宙の解明と量子論をはじめ微細なミクロ宇宙の解明に至るまで、天才科学者のいのちを削る探究心が、これまで知り得なかった驚くべき世界を切り開いている。

 科学のすごさは理論や仮説ばかりではなく、必ず理論の検証実験による証明の裏打ちが伴っている点である。それによって普遍性が担保され、万人の共益するところとなる。最近の日本の物理学者がノーベル賞を受賞した画期的研究は理論上存在するとされていながらも、すべての物質を通過してしまうほど微細なためにそれをキャッチすることが不可能であったため、それは質量ゼロのものではないかと、その存在が危ぶまれていたものだけに、このニュートリノがスーパーカミオカンデという超微細観測装置の技術の進展によって、はじめて、観測され、これまでの物理学理論が全く覆されるという、全く新しい世界が開けたのである。

 その量子論が解き明かす世界は、特に興味を引く。物質の最小単位を探し求めていくうちに消えてしまう観測不能の世界では、素粒子が粒子性(局所性)を持ったり、波動性(遍在性)をもったり、観測するものと素粒子の現象に意思疎通が起こり、素粒子にも心があると思われる意識の交流がなされるという、全く考えられないような不可思議なる世界が検証されている。このことに端を発して、量子学は飛躍的に研究が進んできている。これは、波として観測しようと思えば波として現れ、粒子として観測しようとすると粒子に変わるというのである。専門的なことはわからないが、超ミクロの世界であっても観測者と即応し、しかも、粒子同士は135億光年離れていようとも即時に呼応しているのである。宇宙は超微細なミクロ宇宙からビックバン以来、膨張し続けている我々を含む大宇宙のようなものがさらに130億コあるという超巨大宇宙にいたるまで、しかし、それらはいかに広大無辺なものであろうと、あらゆるものを内包し統合する一者(二のない一つまり非分割)ビッグサークル(大円)の内にあり、決してばらばらな、でたらめな世界ではなく、極めて明確な法則性があることが立証されている。(ここに至るまで天才科学者たちが実にしのぎを削ってきた)しかも、それは、ロシアの入れ子人形のように、微細な超ミクロのレベルから広大無辺な巨大マクロ宇宙に至るまで、各レベルを含み超えながら全体と個が調和された統合体として時々刻々進化の構造にあるというのである。

 量子論における素粒子性と波動性は観測における表と裏の関係に近い。粒子(個別性)として表面化すれば波動性(遍在性)は潜在される。波動性(遍在性)が表面化すれば粒子性(個別性)は潜在される。表と裏の関係であるがそもそもは遍在性であり、ビッグバンにより素粒子から天地創造が始まり、素粒子、原子、分子、細胞とホロン階層状含み超えられつつ、宇宙や万生万物が螺旋状に進化を遂げているというのが最近の万物の理論の展開であるようだ。しかも、ここで重要なホロン階層による含み超える現象は、素粒子はいくら集めても原子にはならないが、素粒子の世界が飽和状態になると、変革が起きてこれまで素粒子には全く無かった原子が新しく創造されることによって、宇宙は新しいステージに立つ。しかも、原子の中には素粒子が含み超えられており、原子の部分ではあるが素粒子の完全性は保たれている。また、原子はいくら集めても分子にはならないが、飽和状態になると、突然全く新しい創造発生がおこり、分子が出現する。しかも分子の中には素粒子・原子が完全なまま部分として含み超えられている。細胞においてもしかり、分子はいくら寄せ集めても細胞にはならないが分子に変革が起きて細胞が全く新しく創発される。細胞には素粒子も原子も分子も完全なまま、含み超えられている。含み超えられながら全くあらたなる者の創発へと進む進化の構造が明らかにされているのである。

 しかも、実に面白いのは、どんな最先端の科学からしても、観測者(人間)を無視できないという点である。巨大宇宙であろうと微細宇宙であろうと観測者がいなければ成り立たない世界であった。もちろん人類も万物の一端なのであるが、その人類が天地創造の始原から終焉に至るまでの目撃者であるということである。宗教からすれば人間は神性を宿すという所以を証明するものである。

 そもそも、仏陀を始め偉大なる覚者たちは、こうした微細なレベルから無辺際の大宇宙に至るまでを目撃する精妙な覚醒レベルに到達したものだったのであろう。

しかも、それはどんな巨大電波望遠鏡をも超越し、スパーカミオカンデすら及びもつかない精妙な感受性に目覚めていたのであろう。それを科学が実証する時代に入ったのであろうか。

 この物質界(この世)にある意識は、そもそも、自己に目覚めることにより、仏心(遍在する意識)は潜在化するが、瞑想により潜在化している仏心が目覚めれば、それまで表面化していた自己は潜在化する。

 物質界は生滅界であるが、遍在性は非生滅界の本不生であると仏陀は悟られた。

 朝起きた観測者は物質界であるこの世にあり、あの世は潜在化されている。夕べに床につき眠るとき観測者はあの世(遍在性)に移行し、この世は潜在化される。この世の観測者を形成する物質的人間がこの世を去るときこの世の人間は消滅するが、意識の視点は遍在世界に移行し、しかも、この世の意識の傾向を若干帯びて潜在化するので、しばらく自己にふさわしいあの世の階層世界すなわちあの世という意識界を形成し、それが顕在化する。そこでは、そもそもの仏心は潜在化する。このように死後の世界において、物質界を超えた非物質的あの世や霊界を形成するのであるが、物質界と同じように非物質界の万生万物を形成し、そこで、潜在化した仏心の指し示す方向に向かって、自己のレベルを仏心の方向へと含み超えるべく進化を進めていく。これが宗教的覚者の示す方向であったが、量子論はそれを着実に裏付ける方向にあるように思われてならない。

 ここで大事なことは、本質的には遍在性(仏心)を帯びつつも、局所性すなわち一つのいのちとして個別に存在し、大宇宙や遍在界を構成している微少な存在であり、きわめて弱小な部分のように見えても、それは遍在性を内在させた唯一無二の完全なる一者の顕現であるということである。

 超微細なミクロの素粒子であろうと原子であろうと分子であろうと細胞であろうと鉱物であろうと植物であろうと動物であろうと霊長類であろうとあの世にある霊界者であろうとその存在の下部にあるものを含み超えた新たなるいのちの時々刻々の創出として遍在性(一者=如来性=仏性)のもとにあることを如実に物語っているように感ずるのである。

萬歳楽山人 龍雲好久