昨年から今年にかけて、或る不思議な響きが内面においてずっとしていた。しかし、それは、音というより無音に近い重く深い響きであり、また、語りかけているようにも思えるが、言葉として明確ではない。
だが、その響きは、明らかに、何らかの意思を伝えようとしているかのようであり、繰り返し響いている。しかも、その響きは四六時中、絶えることなく、すでに一年以上経過し、今日に至っている。
未だ言葉にならない響き、イメージにならない想いではあるが、時折、突然、自分の中で、フォーカスし、明確化されることが、度々起こることがあった。そのフォーカスはたいてい、予期せぬ時に、一瞬にして起こる。
繰り返し起こるフォーカシングとその都度に明確化してくるビジョンは、いわゆる暗在系と明在系の接点に在るあらゆる存在の核心を象徴するものであった。暗在系とは遍在性、すなわち中心のない遍満性なるが故に決して観測し得ない系をいう。神学的には神の国や天国。仏教的に極楽浄土、蓮華蔵世界、曼荼羅界など神話や象徴によって表現を試みるが、表現し得ない先験性、すなわ阿字本不生を指す。
明在系とはビックバンからビッグクランチにいたるすべての存在系であり素粒子からマクロ大宇宙に至る森羅万象の生死流転の現象化された世界を指す。
暗在系はその中心性の無い遍満性から先験性そのものであるが、明在系は中心を持つ局所性により顕現される世界であり、観測、計測可能な系で、宇宙の始まりから終わりまでは、この明在系によって把握される。
ここで与えられている重要なメッセージは、明在系における局所性や中心性は単なる断片化された個々の集合と相互依存性にあるのではなく、個々は完全なる独自性を有するが故に自他の独自性を含み越える新たな独自性を生み出しうるということである。すなわち、含み越えられ統合されるという新たな独自性と創造性が、暗在系の遍在・遍満性によってもたらされるということである。明在系は時間や空間や次元の枠による条件付けに縛られるが、その背後には時間や空間や次元の枠に非ざる暗在系が時々刻々に先験的に作動している。しかも、個々がより大きな個に含み越えられる場合、全体が個を支配するということではなく、完全に自立し得た個が適格に統合されて初めてより大きな全く新しい統合体として創造されるという、ホロン構造的に進化するのが明在系の本質であることである。その統合の本質にあるものが、いわば暗在系の先験性であるのだが、暗在系というのは明在系の次元を越えたところにある。常に本質なる先験として次元を通じて明在系の次元に経過し、顕現化され消失しつつ、先験より次々に生み出される。
ここでいう次元とは、わかりやすく言えば、仮に一次元は「点」でその動きは前後の直進性のみの次元。仮に一本の橋を渡る時に、一次元の人間同士が向こうとこちらからやってきて橋の真ん中でぶつかれば、譲るスペースはこの次元にはないから、どちらかが後戻りするか、相手を倒さない限り前に進めない。二次元というのは一次元の前後に左右の次元が加わった「面」の世界であるので、ここで、直進しかできない一次元の人間と前後左右の平面を移動できる二次元の人間が出会ったとき、一次元の人間は前に進むか後ろに戻るかのどちらかしか選択肢はないが、二次元の人間は、ちょっと脇にどけて一次元の人間をかわして前に進むことが可能だ。そのとき、一次元に人間の目には右左は目に入らないから、目の前から二次元の人間が突然姿を消して、突然後ろに現れたとしか見えない。同様に、二次元は面の移動しかできないので、前に壁が立ちはだかれば引き返すか壁を壊すしかないが、三次元の人間は上下の次元が加わるので、壁を飛び越えれば先に進める。三次元の人間がジャンプしたとき、二次元の人間には、三次元の人間が突然消えて、突然壁の先に現れたと思うだろう。同様に、三次元の人間は四方八方上下とも囲われてしまえば身動きがとれないが、四次元の人間は平気でその囲みを通過できる。われわれは五官六根の感受できる三次元の世界を見ているが、暗在系という四次元以降多次元からやってくる先験性によって顕現化された明在系を見ている。このように次元とは一つの仕切り板すなわちスリットのようなものであるのだが、その次元におけるスリットの穴を通して暗在系と明在系が交差していることが今回の重要なメッセージである。
その暗在系と明在系の交差する中心性が万生万物、あらゆるものの自立性、自存性であり、ミクロからマクロにいたるまで同一の中心性すなわち「一者」、密教的には「大日如来」、神学的には「キリスト」といった象徴で表現される「二のない一」である。これらは次元におけるスリットの上では「大円」で映し出されるが、それは仮想であり、実相はあらゆる次元を突破した暗在系と明在系が中心でねじれており、もともと裏も表もなく、暗在系と明在系を統合させる宇宙の重力磁場が作用した時々刻々の全く新しい創造の源であり、 その中心があなた自身であることを自覚しなければならないということだったのである。
新年早々、例によって難解な心の通信となってしまったが、ずっと響いている不可思議な響きの正体はこれらを象徴するあの弘法大師空海の右手に持つ五股金剛杵が、個々の万生万物が内在させている不生の仏心であること。それが明在系と暗在系の中心にあるすべてのもののかけがえのない生命であり、それを脅かすいかなる驚異が目の前に立ちはだかろうと、暗在系の金剛不壊心(いかなるものも破壊し得ない堅固な)遍在性すなわち遍照金剛であることを、ひとりびとりが今ここに自覚すべきことを示しているのが、あの不可思議な響きの明確な意味であった。
このような内示があるときは必ず決まって大変動が起こるまえぶれである。それはしかし、災い転じて福となすために与えられるものである。「何事か不測の事態に遭遇した時は南無遍照金剛ととなえて、自心に五股金剛を観ぜよ」という如来界からの響きであった。
われわれにとって、いま、世界はことそれほどに重大な局面を迎えているのかもしれない。
萬歳楽山人 龍雲好久