道を歩むおりなど、際限もなく心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ散漫な我がこころに「今ここありがたし」と注意をうながしつつ歩む。
すると、さほどでもないことなのだが、ふと、「我に気づくよう」に今ここをみることがある。
それほど、「我」というものは「我を忘れて」心のなかでおしゃべりに夢中であり、絶えず、きのう・きょう・あしたと思いを巡らして、やすむ隙もないのである。まして、気がかりなこと、やらねばならないことなど厄介な問題を抱えたりしていると、心ここにあらずで、際限もない堂々巡りの思考の渦にハマってしまう。
しかし、これは無理もないことなのだろう。人とのさまざまな関わりにおいて、人というものはえてしてさまざまな葛藤や不安や恐怖に晒されるのがあるがままの心境なのだから。
こうした心境にありながらも、道を歩んでおると、ふと、どこからとも無く篠笛の音色がかすかに聞こえてきた。その音色はかすかだが澄んでおり、はっきりとしてどこまでも透き通るようであった。しかも、周辺の全ての響きを際立たせ、美に変えていく圧倒的な力があった。
その笛の音とともに鳥の声、風のゆらぎ、列車の音、田畑をうねる音、人の話し声、川のせせらぎ、遠く山並みに囲まれた盆地に立ち昇る烟り、寺の鐘の音、歩いているそばを車が駆け抜け、急ぐ自転車の軋み、人に驚く犬の声、辻の家の三味の音、メール着信を知らせる携帯すらも・・・それらが、一瞬にして、そう、全世界の今がここに息づく美をもたらしている。
まさに「今ここ ありがたし」である。
あの笛の音は一体どこから聞こえてどこへ去ったのか。気のせいだったのか。いいや、明らかに、どこからともなく響いてくる麗しき音色であったが、確かめるとそこは無音でしかなかった。不思議に思いつつ道を歩む。夕暮れの帳が降りる。すっくと立つ木々の影が独立自存の今を顕示しつつ、静寂の中にのみこまれていく。
あの笛の音は確かに「今、ここ在ること難し」であった。かすかだが、あるがままの全てを明らかにする不可思議な音色であった。
夕暮れ迫り、田畑の広がる真っ直ぐなあぜ道をどこまでも歩む。はるか向こうの森の寺から晩鐘の祈りの響きが伝わると、一日の畑仕事を終えた農夫たちが、ふと「我にかえる」かのように、鍬や鋤の手を止めて、静かに祈っている。その姿は全世界で繰り広げられている悲惨な苦悩をそのまま包み込むかのような、静謐で安らかな慈悲に満ちた祈りであった。まさに「今ここにあること難し」である。
マスメディアを通じて流れるものはあまりにも喧しく、悲しいことばかりである。さまざまな大国が大騒ぎをする中にも、あの琵琶法師の琵琶の音が響いているような気がする。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」と・・・。
雅楽で歌った今様の中に「色はにほへど 散りぬるを我が世たれぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて浅き夢見じ 酔ひもせず」があった。この時響いていた篳篥の笛の音は無常の寂寞感を一層際立たせて美しいほどに広がっていた。
これらはブッダの悟りの心境である「諸行無常」・「諸法無我」・「生滅滅己」・「寂滅為楽」を歌にしたものだ。
だが、ここで、間違えてはいけない。それは、「嗚呼、無情!」を詠んだのではなく、「心を鎮めて、声なき声を聞け、音無き音を聞け、妄見・邪見を拭い去って、姿なき姿をあるがままに見よ、全ての真実が、今ここに有り難しであり、それに気づくことのみが世界の悲惨な暴力を終焉させる唯一のものである」と歌っているような気がしてならないのだ。
萬歳楽山人 龍雲好久