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作成日:2016/07/20
心の通信H28・7・15《早朝、托鉢に出る》

 早朝、托鉢に出る。托鉢といっても、鉢に乞食するのではない。歩く禅である。全身全霊を挙げて、いま、ここに在る。

 しかし、いまここを意識すると、それはすぐ記憶としてとどまり、記憶の束が経験として積み重ねられる。その記憶の上にさらに刻々のいまここが経験され、積み重なっていく。  

 記憶の中に刻印され続けるいまここは、まるで絵を描くように、記憶に残り、いまここの軌跡が意識に上る時空の実体として認識する虚妄の法のなかに繋縛されてしまう。

 網代笠をかぶり、墨染めの衣の袂を風に翻し、錫杖を突き、トッとトッとと、道を歩む。いまここなる刻々の道は、昨日の道と同じくそこに道があることを何ら疑いもせず、ひたすら、トッとトッとと、歩む。まだ目覚めぬ街中を過ぎ、田のあぜ道を抜け、また道路に出る。

 網代笠は、物見遊山の散漫なこころを遮る。ただ、ひたすら、歩先のいまここを意識し、歩む。錫杖の突き返る音は、道の様態とともに変化する。ガード下ではカツーン、シャリーンと全世界を揺るがすかのような大きな音がこだまする。

 土の道は何と甘く優しいのだろう。砂利道はズルズルで滑りやすく、油断がならない。突く錫杖が小石をはじき出す。

 傘下に流れる景色はわずかだが、果てしなく多彩に変化する。家々の庭の草花や土手のアジサイがお早うと声をかけてくる。小鳥が目覚めて、動き出したようだ。頭上で大声を発して飛び去る。耳のよい犬たちなのだろう、錫杖の音を怪しんで遠くで吠えている。人はまだ寝静まっている。家々もまだ寝静まっている。

 まっすぐ伸びるあぜ道。青々とした稲田がどこまでも広がる。ひたすら(いまここありがたし)と念じつつ、トッとトッとと、ひたすら歩む。

 急に、小鳥たちの騒がしいところにでた、どうしたのかと網代笠を上げて見やると、おお!なんと広々とした田園であろうか。遙か彼方には、ようようたちこめたる雲霧の晴れ間に山並みが顔のぞかせている。どうやら、傍らの丘に雀のお宿の葦原の藪があって、その中で、無数の小鳥たちが、朝餉のおしゃべりに夢中らしい。

 田んぼのあぜ道はあたりに遮るものはなく、風のない日はとりわけ気持ちがよい。

 しかし、小生、托鉢に出たのは、このような景色を楽しむためではない。

 仏陀の最も基本的な問い。すなわち「人々はわがものと執着したもので悲しむ。(自分の)持っているものは実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである、と判ったあとは在家にとどまっていてはならない」という問いを直視するためであった。

 こころの通信で何度も触れてきたように、仏陀の最も肝心な哲学で最も理解しにくい点は、「われわれが外界として知覚に捉えているものを決して常識どおりそのまま外界に存在するものと認めないで、知覚はされるが、それは存在する実体が変化している様子ではない。」としていることである。

 托鉢をしながら、仏陀の問を心におき、「いまここ」を絶えず見る。だが、しかし、その目は、どうしても、自分の知覚が経験する表象を外界の姿と思い、複数の表象を区別できないままにそれらを「静止像」として意識し、そこから抽象した形態観念を記憶してその後に経験される「静止像」をそれに照合する。このようにして、例えば目の前のそれを、「わがもの」と認識し、外に在る実体とみなしているのである。しかし、この判断は知覚が意識した「静止像」を、記憶している「静止像」由来の形態観念に照合して外界にある「わがもの」と思っているだけであり、実際は想起された形態観念どおりの実体が外に在るのではないということを見そこなっているのである。

 大事なことは、われわれの知覚の原因になっている外界は、経過して《消失しつつある〈今〉の〈変動〉である》から、実は常に「捕捉される静止的事物」がない。これこそが〈空〉の指すところである。仏陀は世界が〈空〉であることを心から認識するために出家するがよいと勧めておられる。もちろん「出家する」とは、小生のような上面な坊主の格好をして、出家修行をすることを指すのではない。

 「外界を実体視して、それに執着し、こだわり、獲得しようと自我我欲に明け暮れた虚妄なる精神からの解放」を意味している。

 であるから、この仏陀の問は、一人一人の人間に向けられている。

 仏陀は指摘される。「過去なるものは捨て去られたものであり、未来は到達していないものである。現行する在り方を時々刻々観察するものは、そのことを紛れもなく動かしようもないものとして熟知して心を完成せよ」と。

 網代笠をかぶり、墨染めの衣の袂を風にくゆらせ、錫杖を突き、「いまここ、いまここ、いまここ在りがたし」と念じつつ、トッとトッとと、道を歩む。

 しかし、仏陀は、自分という実体が、昨日から今日、明日にかけて、道という実体を托鉢して歩み続けていると感じているなら、これこそが虚妄だというのである。事物を実体視することが虚妄であるというのだ。油断するまでもなく、我々は全くこの虚妄の法の罠に陥っているし、今日の仏教はほとんどが虚妄の法の罠に陥っていることにすら気づけないのだから、ここはまことにわれわれ凡夫にとっては困難な視点なのである。托鉢中その虚妄性から抜け出れない自分の無明性をいやというほど知らされ、愕然とせざるを得なかった。

 事実、いまここなるものは、過ぎ去った一秒前にも戻れないし、未だ来ていない一秒先にも進めない。その過去と未来の境にあるいまここは、未経験の先験性、すなわち本不生の源流が、いまに経過し、消失するという実相であり、いまここは太初以来一回限りの全く新しい事実として「いまここ」に在ることにほかならない。いまここは、昨日のものでも明日のものでもない。このような歴時的事実を刻々に直視する。これを托鉢行(人生)の要と思っている。

 もう、歩いて2時間は過ぎた。街は、とっくに目覚め、人々は忙しく動きだした。往来を走る車が増えてきた。登校の小学生たちが、あの土手にあったアジサイのように、あどけない天真爛漫な笑顔見せて「お早う」と声をかけてくる。初々しい全く新しい朝のはじまりである。

萬歳楽山人 龍雲好久