台風による甚大な災害が東北や北海道に及ぶことは昔はあまりなかったように思うのだが、今年は複雑怪奇な台風の動きに直接さらされている。やはり、報道によると地球温暖化によるメガクライシスに突入しているのだろうか。
そういえば、環境汚染の問題が取り上げ始められたのはいつの頃だったろうか。鮮烈に印象に残っていたのは確か物理学者フリッチョフ・カプラ博士の『ターニング・ポイント』が世界に大きなセンセーションを巻き起こしていた頃だったように思う。この頃は、一部の物理学者や数学者の間で、物理学の最先端の研究は、いよいよ神(不可知)の領域に入っていると噂され、多くの天才科学者が東洋思想にそのヒントを見出そうとして、世間が驚いていた。そこから導かれるのは、「どうも不可知の中にあるものは混沌ではなく、神の意思、ビッグスリーなる大宇宙の調和の意思が流れており、それを無視した文明は自滅せざるを得ない」と気づいた自然科学者たちが、「これまでの独善的文明による自然破壊は、人類に大きな禍根を残すであろう」と警鐘を鳴らしつつあった。しかし、その頃はそのような警鐘を鳴らすのは、科学者のほんの一部の見解として、たいていはまともには取り扱われなかった。その折のことなのだが、用事があって上京し、都内を歩いていると、駅構内の一角で「環境汚染の問題考えるコーナー」があって、大きなスクーリーンに「これ以上自然破壊がすすむと地球はどうなるか。自然界はどう変わり、あらゆる生命体にとって、いかに深刻な影響を与えるか」というオゾン層破壊による地球温暖化について、かなり詳しく、しかもかなりの危機感を持って報じられているのを目撃したことがあった。
しかし、この時は、雑踏の中、誰ひとりとして、その画面に目をやるものはなく、ただ、多くの人々が行き交うだけであった。
それが、とうとう、今日、メガクライシスとして、現実のものとなってきたのである。世界各国がこの問題で真剣に話し合うようになったのは、かなり状況か深刻化してからのことである。あの時、放映スタッフの一人は「ときすでに遅し!」とかなり絶望的な物言いをしていた。確かに、ここ数年来の異常気象と自然災害は日増しに深刻になり、しかも、何もかもが未曾有のあるいは観測以来初めてという異常さである。やはり、ときすでに遅しで、自然回復力の限界をとうに過ぎているというのだろうか。
日進月歩の科学による破壊の猛威と脅威に歯止めがかからず、しかも、ことここに至っても人類の欲望の傲慢な相剋から抜け出せない現状から、未来の状況は、まさに、メガクライシスすなわち滅亡の危機と呼んでいる。
確かに、地球存亡の危機にあって、互いに利権を主張している場合ではなく、人類の叡智を結集してこの危機を乗り越えていくべきだということは、誰しも思うことなのであるが、世界の様相は、実に覇権や利権の争奪に明け暮れている。人類はどうなっていくのだろうか。大地が崩れているというのに・・・・
果たして、煮えたぎる地球にあっても、生命が続く限り、生き残れるべくを叡智を結集し続けうるのであろうか。
環境を破壊し、生命存続の危機をもたらしているものは、皮肉なことに産業革命以来、繁栄と裕福と権利を追求してきた結果であった。拡大し続ける飽くことなき人類の欲望による暴力的搾取のメカニズムを常に大きく増幅させるものは科学であった。人類や国家の野望に科学が組み込まれ、民族や国の存続をかけた戦争と破壊を繰り返し、大量破壊・大量虐殺へとエスカレートする。さすがにこれでは自分の存続すら危ぶまれると気づいたのは、すでに人類が核爆弾を投下してしまって、あまりの惨状を目撃してからだが、しかし、抑止力と称して核所有国は増え、開発がどんどん進んでおり、かのアメリカのオバマ大統領の「核兵器の先行使用(先制攻撃)は行わない」とする宣言も取り下げざるを得なかったようだ。
飽くことなき人類の欲望は、がん細胞のように自然を蝕み、破壊してきた。
そのつけはすでに回ってきており、地球生命の存続が危ぶまれている。こういうときに、何を得ようと人間同士が争うのであろうか。
地球自体はその大自然界を通じて、ずっと悲痛な叫びを発し続けていたであろう。地球における豊かな自然界の循環システムが破壊され、地球自身の自然治癒能力の限界を超えてしまって、悪循環が始まっている。
しかし、とはいえ、人々や自然現象を通じて、先見的に人類の意識の変容を促すビジョンや啓示、現象や秘蹟などが示されてきたのは、どういうことなのだろうか。そもそもそういったことは幻想・妄想、誤認のたぐいで、単に唯物的因果論による自滅のパターンを辿っているだけなのであろうか。
しかし、地球上に生息している生き物は、この現象世界のなかで、原因と結果、相互依存の因果応報のカルマの法則を無視することはできないから、人類の所業が悪ければ必然的に、自業自得の滅亡の一途をたどるものかもしれない。
だが、それでは、メガクライシスのまえに我々はただ手をこまねいているしかないのだろうか。今となってはこのメガクライシスから立ち上がることなど土台無理な話なのだろうか。そうではない?たわいもないことかもしれないが、小生に繰り返し示されるビジョンを目の当たりにして、こうして、ペンをとり、何度もそのことを訴えざるを得ない。
そのビジョンはいずれもフイなことではあったが、繰り返し体験している。一度目は十数年前に萬歳楽山山頂に初めて立ったとき。二度目は三年前の事だった。そして最近も、である。
「突然、眼前に、真っ暗な虚空が広がり、そこにぽっかり浮かぶ球体が顕れた。それは実に美しい瑠璃色の輝きをした球体であった。まるで、地球のようであった。やがて、その瑠璃色の球体に雲海がたなびき、球体を覆っていた。その雲海の合間で稲妻の閃光が走っていた。しばらくすると、球体の中心から、閃光が放射状に四方に伸び、それはあらゆるものを貫き通す強い光であった。が、決して眩しいものではなく、やわらかな光であった。その一条の金色の光は、やがて、緑がかった龍体に変化し、球体の中心から放射する光にそって8の字描くように放射帯に添う無数の光の束でもあった。ちょうど、密教の宝具の五鈷杵のように輝いている。その五鈷杵のような光の真ん中に瑠璃色の球体がある。その流動的光のは縦横無尽に流れている巨大なエネルギーの流れのようではあったが、五鈷杵のような他を圧倒するようなものではなく、本源のエネルギーがこんこんと湧きいづるように見えた。やがて、その瑠璃色球体からまっすぐに伸びる一筋の光が小生の頭上から入ってきて小生の全身をめぐり、小生の中心から瑠璃色の球体の中心に向かうので、その光についていくと、球体の中心にちかづくに連れ、紅色の蓮の花に変わり、その蓮台に水晶球があらわれ、それはやはり芯のほうから神々しい光、夕日のようなやわらかなどこか懐かしい気のする、輝ける球体となり、更に近づくと、なんとその中心に宝冠をかぶった如来、すなわち大日如来が顯れ、全くのやわらかな光に満ちており、大日如来の御手は根本の印から法界定印を結び、そして彌陀の定印を結ばれて変動し、そこで固定され変化が止まった。それ以上進めないので自分もとどまっていたが、やがてその如来の足元に光が導かれ、その光とともに如来の体内に侵入した途端!突然、森羅万象、万生万物の一切がその阿弥陀の定印を結ぶ大日如来であり、個個は単なる部品ではなく、全てはこの世とあの世の一次元から九次元を貫いている局所(独居)性であり、本不生(見えざる源流こんこんと湧きいづる)遍満性がクロスしている一者そのもの、すなわち不生の仏心であることを了得した。」
これは、まさに、「真如」なる「不生の源流」がこんこんと湧きい出て、森羅万象の「仏心一如」として刻々に精進すべきことを伝えており、それが、人類の意識を変容し、地球生命のありようを創発せしむるものだということにほかならない。「先験より今に経過し消失し続ける」実相にこそ生命は「常に新たなる源流の創発」となる。過去となって死滅した物質や妄想に固着せず、我々が、「親より賜った不生の仏心ただひとつで生きてこそ、メガクライシスは止む」という如来の響きであった。
本堂で一人本尊に向かい、このようなことを思っていると、本堂の縁側ではコオロギがいまこの時を必死に鳴いている。それは圧倒的な美を持以って、全山に響き渡っている。
萬歳楽山人 龍雲好久