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作成日:2017/01/20
心の通信H29・1・16《ホモ・サピエンスの意識革命》

 そもそも、今から2500有余年前に、インドの地でブッダ(ゴーダマシッタルダ釈迦牟尼佛)の説示しようとされたものは、人類が長い進化の過程で陥っていた虚妄の法、すなわち人類がハマってしまった、政治・経済・文化・宗教などにおける認知上の迷妄を打破するための挑戦であったのかもしれない。

 ブッダはこう説かれていた。「人々はわがものと執着したもので悲しむ。自分の持っているものは実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである。とわかったあとは、在家にとどまっていてはならない。」と。

 「わがものと執着する」のは、例えば目の前のそれを、「わがもの」と認識し、外に在る実体とみなしているからであるが、この判断は知覚が意識した「静止像」を、記憶している「静止像」由来の形態観念に照合して外界にある「わがもの」と思っているだけであり、実際は想起された形態観念どおりの実体が外に在るのではない。目の前に知覚されている「静止像」を、想起された観念どおり「わがもの」と認識するのは、虚像を実体視しているだけで、フィクションを拠り所とするのではなく、その知覚原因として外界に〈経過〉する実態を「常住でなく、必ず失われる性質のものである」と判ったら出家(フィクションにとらわれる認識の罠から脱出)するのがよいということである。

 「わがもの」として執着の対象となっている事物は、「実相」では「実に常住でなく」、「失われる性質のものである」とされる。「常住でない」とは「静止して存在するのではない」、「〈今〉変動しつつある」という意味である。さらに「失われる性質のもの」とは、「停滞なく、経過して(〈今〉のその変動が)消失する」、つまり、「過去になる」という意味である。

 このことは、同じ在り方が知覚されることはなく、今、外界に知覚されたものは、太初以来一回だけ経過して消失する性質のものであり、知覚されている外界は常に新しく変動し続けているのである。

 われわれの知覚の原因になっている外界は、経過して《消失しつつある〈今〉の〈変動〉である》から実は常に「捕捉される静止的事物」がない。捕捉される実体はないが、外界が虚無、あるいは空っぽというのではなく、渾渾と新たに湧きい出ている。これが、ブッダの示された〈空性〉であった。ブッダは世界が〈空性〉であることを心から認識するために出家するがよいと勧めていたのである。

 さて、読者諸氏は、NHKのクローズアップ現代で取り上げられていたイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』(上下巻)をご存じであろうか。

 この本は、135億年前から現代及び未来に至るまでの歴史年表上、人類250万年の歴史を4つのターニングポイント(1、認知革命。2、農業革命。3、人類の統一。4、科学革命)を挙げて、全く新しい切り口で解釈している。(興味のある人は、直接、原著・翻訳本にあたってほしい)

 その独特の切り口は誠に斬新で驚異的でさえあるが、妥当性が高い。

 先ず、認知革命。これは、今から、およそ7万年前のことだが、この認知革命によってこそわれわれの祖先、ホモ・サピエンスが生き残れたのだという。

 当時、より力が強い、ネアンデルタール人という別の種族もいたが、生き残ったのはホモ・サピエンス。ネアンデルタール人は、リンゴなど、実際に見えるものしか、言葉にして周りに伝えられなかったが、ホモ・サピエンスは、神様のようなフィクションを想像し、それを全く見知らぬ他人に伝えることができたという。

 まさしく、フィクションを想像し、みんながそれを信じる。そのことで多くの仲間と協力し、大集団での作業が可能になった。

 これが人類の最初のターニングポイント、認知革命により、われわれの祖先が集団で大きな力を発揮し、地球上の覇者になったという。

 しかし、ユヴァル・ノア・ハラリは「文明の発展が人間を幸せにするとは限らない」と指摘。

 例えば、およそ1万2,000年前に始まった、農業革命。これは、集団で力を合わせて小麦を栽培することで、食料の安定確保ができ、人口が増加。社会は大きく発展したというのだが・・・。しかし、集団としては発展したけれど、人間一人一人は、狩猟採集時代より働く時間が長くなり、不幸になる人が増えた。しかも、貧富の差まで生まれたという。

 ここで彼の驚くべき指摘は、“食糧の増加は、よりよい食生活やより長い余暇には結びつかなかった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。”という。

 さらに、特異な指摘は「小麦という植物から見れば、人間を働かせて小麦を増やさせ、生育範囲を世界中に広げた。つまり農業革命とは、“小麦に人間が家畜化された”とも言えると指摘する。

 さらに「実は幸せかどうかを考えるのは、最も大事なことなのだが、歴史を振り返ると、人間は集団の力や権力を手に入れても、それを、個人の幸せと結びつけるのは得意ではなかった。現代人は、石器時代より何千倍もの力を手に入れているが、一人ひとりはそれほど幸せには見えない。」

 “2014年の経済のパイは、1500年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平で、アフリカの農民やインドネシアの労働者が一日身を粉にして働いても、手にする食料は、500年前の祖先よりも少ない。

 人類とグローバル経済は発展し続けるだろうが、さらに多くの人々が飢えと貧困にあえぎながら生きていくことになるかもしれない。”

 この問題は会社やお金だけでなく、宗教や法律国家にも言える。これらは全て、人間が生み出したフィクション。それをみんなが信じることで人間は発展してきたけれど、人間一人一人は、狩猟採集時代より働く時間が長くなり、不幸になる人が増えた。しかも、貧富の差や人種差別まで生まれた。

 資本主義は、いま、限界に来ているかという質問には、「資本主義は近代で最もうまくいった考え方で、宗教とさえいえる。でも、そのために大規模な経済破たんや政治的な問題も起きている。いま、たった一つの解決策は全く新しいイノベーションを起こすことだと思う。今の資本主義や貨幣経済に代わる新しい概念というもの、みんなで抱えることができる共同のフィクション。単なるフィクションではなく、共同で持てるフィクションを作る必要がある。」

 更に、「サピエンス全史」はわれわれの未来を展望し、人間の能力をはるかに超えたコンピューターの登場。遺伝子を思いのままに操作した、デザイナーベイビーの可能性など、科学技術の進歩で人間を取り巻く環境は、急速に変化している。

 未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。

 おそらく未来の世界の支配者は、ネアンデルタール人から私たちがかけ離れている以上に、私たちとは違った存在になるだろう。」”

 「今後1、2世紀のうちに人類は姿を消すと思う。でもそれは、人間が絶滅するということではなく、バイオテクノロジーや人工知能で、人間の体や脳や心のあり方が変わるだろう。将来の人間、超ホモ・サピエンスはこの先、人間は自分たちが作った科学にのみ込まれてしまうのか。それとも、うまくコントロールできるのか。その、未来を切り開く鍵は、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかにかかっている」と説いている。

 

 この、『サピエンス全史』に触れて、痛感するのは、ブッダが最も厳しく挑戦されたのは、人類がホモ・サピエンスとして進化するプロセス上、必然的に拡大せざるを得ないフィクションへの依存性が飽くことなき欲望のおける欺瞞性であったのかもしれないということだ。

 しかし、残念ながら、仏教の歴史もまた、サピエンス全史が指摘するホモ・サピエンスと超ホモ・サピエンスの延長線上にあり、冒頭に掲げたブッダの説示は、難解だと一笑に付し、自己の教派の布教拡大こそが、人類の未来を展望すると信じてやまない。

 ブッダの親説は『ホモ・サピエンスの空性における意識革命』なくして、超ホモ・サピエンスの新生創造は怒らないとおっしゃっておられるような気がしてならない。

 まさに、いま、ホモ・サピエンスが超ホモ・サピエンスとして、虚妄の法であるフィクションに対する自我の呪縛を解き放つべく、宿命的意識革命の時代に入ったといえるのかもしれない。

 新たなる年を迎え、諸氏の飛翔を祈念するものである。

萬歳楽山人 龍雲好久