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作成日:2017/11/20
心の通信H29・11・6《すべてには心がやどる》

 毎朝、この寺の境内にある池の橋を渡り、権現堂に参るのであるが、驚いたことに、池の畔のカキツバタが4月以来、11月の今日に至り、花を咲かせ続けている。花のことはよく知らないのだが、このカキツバタがこのように長い期間咲くことは、全く無いことであった。青紫の花は実に清楚で美しい。お堂を開けるとき、丁度、右手足元の下の湖面に映えて、麗しく佇んでいる。その凛と佇む姿に魅せられ、ついつい見入ってしまう。しかも、毎日、違った茎に花を咲かせている。一昨日は、一輪の花、昨日は、二輪、今朝は三輪、…と萎んだ花のそばからまた新しい花が咲きだして、花の数も日によって異なる。なんと、今年は7ヶ月以上、一度も花が咲かない日はなかった。毎日、毎日、何かを語りかけてくれているような気がして、不思議でならない。

 そういえば、学生の頃、都内周辺の寺に随身(寺に弟子として住み込み修行)しながら、仏教系の大学に通っていたのだが、そのときにも、後々、不思議だなあと感ずる似たようなことに遭遇したことを思い出す。

 その頃は、東京オリンピックも無事に終わり、列島改造・高度成長著しいときでもあったが、やがて、オイルショック。トイレットペーパー騒ぎなどが起きてバブル崩壊に差し掛かる頃であった。三ヶ寺ほどの寺を転住し、弟子として世話になりながら修行をさせていただいていた。

 松戸のある寺に随身して、三年目が過ぎた頃であった。普段、寺の境内の奥書院に寝泊まりさせていただいていたのだが、この奥書院は門構えで、庭造りも含めて、実に日本建築の粋を集めた屋敷で、弟子が住むにはもったいない建物であったが、空き部屋がないためそこに住まわせていただいた。先代住職や先々代住職が大切にしていた奥書院であることは、住んでいるうちに少しづつわかるような気がして、そうか、この庭は、春夏秋冬の四季折々の景観を愛でるようにできている。そういえば、この無造作に転がっているかのようなこの石の並びや岩はよくよくたどると、枯山水であった。などと気付いて、それはそれは、発見の喜びと楽しみがあって、幸せであった。

 ある時、その庭の草木にこれまでにない異変が生じていることに気付いた。今まで一度も花を咲かせてくれなかった草木にたくさんの花が咲いている。みなこれ以上の満開はないというほどに精一杯咲かせているものばかりである。これはどうしたことだろうと不思議に思うほどだった。それからしばらくして、この寺の本堂の大普請の話が急に湧き上がり、京都の奥谷組による本堂工事が決まった。それで、工事のため、とうとう、書院も庭も取り壊されたのであった。(そうか、庭木はこのことを先に感受していたのだなあ)と、一大普請工事が一段落して、ふと、しみじみ思うことがあった。

 いま、現在、自坊の寺の境内で頻繁におきている不思議な異変が、一体、何を物語っているのか、情けないことながら、私の感受性は、こうした自然の草木や石ころ、小鳥や小さな生き物たちにも及ばず、劣化し、皆目、わからないのだが、見えない何らかの響きであることだけは確かである。

 ある大学で教鞭をとる著名な科学者が「量子対話論」のなかで、電子・陽子・中性子・原子・分子・高分子・タンパク質・微粒子・細胞・機関・胞子・種子・動物・植物・人間・地球・太陽・太陽系・宇宙‥‥これらはすべて個性を持ち対話を通じて互いの存在に関わっていることを証明している。また、ある大学の名誉教授の科学者は「宇宙はすべて心によってなりたっている」とまで言い切っている。

 興味深いのは科学的検証の厳しい学問で、とりわけ、量子物理学や宇宙天文学を扱う天才科学者たちが、見えないが存在している何かへの飽くなき探究の過程で、「すべては対話を通じて影響しあっている」とか、「すべてに心があり、その心でつながっている」という関係を発見して、従来の科学的世界観から脱皮せざるを得ない状況にたっていることである。

 但し、注意を要するのは、ここで例に挙げている二人の科学者は、しかし、その論理の基盤が似ていて非なるものがある。一方は唯我論的であり、一方は唯物論的であるようにみえる。どちらも、しかし、見えないが存在しているもの、則ち、潜在現象を科学的に検証している過程で、すべてに個性があり、その個性によるそれぞれの場や階層(ステータス)を通じて会話・通信・コミュニケーションの対話交流をしている。電子や原子や分子や細胞や種子・植物・動物・人間、太陽系・大宇宙の自他のコミュニケーションにより場の形成がなされいる。それはとどのつまりは「世界はあなたであり、あなたは世界であることを意味する。故に、他者を傷つけることは自身を傷つけることに他ならない。あなたの悲しみや苦悩は世界の悲しみであり苦悩である」として、現代のこころないあり方に対して、真剣なる警鐘を鳴らしている。純粋な科学者がである‥‥。

 この寺の境内の池は寺の歴史とひとしく四〇〇年ほど前に造られている。亨保四年に芭蕉翁追善供養の石塚ともに発刊された誹諧『田植塚』のなかに法圓寺の境内図が載せてある。そこに、清流が流れ込む蓮池があった。しかし、今では、その清流の流れ込む堰が止められ、この池には沢の水も入らない。すっかり異臭の漂うドブ池と化した。ザリガニが増え、蓮も育たない。せっかく奉納された錦鯉や金魚やフナたちも、浅い池のため、背びれが水面から出ている。すぐ、カラスや鷺たちの餌食になってしまう。そこで、思い切って、池の側に井戸を二つ掘り、池の水を常時確保し、池の水をポンプのチカラで循環させる大工事を敢行した。難儀したのは古い池なので、石垣の間から水が漏れ、せっかくの井戸もすぐに干上がることであった。この水漏れを防ぐことが容易ではなかった。しかし、ようやく落ち着いた。その間、水を抜いたり入れたり、大型機械が入ったり、かなり騒々しかったのだが、まるで工事の期間中、みまもるかのように、池に咲く一株のカキツバタが毎日、諦めるなと花を咲かし続けてくれていた。今では、池の水は豊富になり、循環させているとはいえ、ゆたゆたと流れている。大きな錦鯉や小さな金魚たちが悠然と回遊し、気持ちよさそうである。朝方、権現堂の戸を開けようとすると、右手下のカキツバタが咲く池の畔に鯉たちもよってくる。お堂前の礼拝のワニグチの音がわかるらしい。必ず寄ってくる。ここ数日、池の水温が12度より下がっているので、錦鯉たちの餌はやらないようにと言われているので、私を覗く魚達に「ごめんね」と言って、お堂に入り、朝の祈りを捧げている。循環させた水を高所から落とす池の口には、滔々と水が落とし込まれる。その辺りに、縄文土器の結晶と同じ構造の三角錐の陶器がおいてある。水の心を活性化し浄化してくれるのだと檀家のある方が奉納してくれ、それをそこに置いたのであるが、魚達はそれがわかるらしく、そのピラミッドの周りをよく回遊する。

 すべてには心がやどり通じ合うものであるというのはまことのことなのであろう。  

萬歳楽山人 龍雲好久