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作成日:2018/03/20
心の通信H30・3・12《聖なる母》

 いつものように、早朝、諸堂を巡りながら、それぞれの本尊と対峙する。

 この日は、日の出前の冷え込みが普段より厳しく、マイナス7度であったが、空気が乾いているせいか、頬や手先の冷たさは、そう感じずに黙想を捧げていた。

 しかし、日々の黙想とはいえ、我が精神は、絶えず流れるラジオの音のように、常に過去の気ががりなことや、これから先の気がかりなことなどで、頭がすぐにいっぱいになり、瞑想どころではなく、迷走状態に陥るのである。

 早朝、眠りから覚めたばかりだというのに、油断していると、気がかりなことが、ふつふつと湧きいで、それに頭を巡らせている。今日も、うっかりして、いつの間にか、ロウソクの明かりやお香が燃え尽きていることに気づく。(あれあれ、また、自分のことで迷走していたなあ)と、唖然とする。情けないのだが、日々雑務にかまけていると大抵はこうである。

 とはいえ、人は誰でも、気がかりなことがあると、朝の瞑想時に限らず、日々、絶えず、その事で頭を巡らせているのが日常なのであまり気にもかけない。

 そうではあるのだが、実は、早朝や夕暮れに、「静かな祈り」が欠かせないのは、人生における日常の様々な関わりの中で、無意識に蓄積している様々な思いに「一瞬にして気づく」という、自分自身にとっては、何よりも、大切でかけがえのないひとときをもたらすからである。日常の生活や仕事、人との関わりのなかで、様々な挑戦的なできごとに遭遇すると、心は千々に乱れる。どんなに心の平静さを保とうとしていても、あの、大きな打撃音を耳にした後の余韻のように、また壊れた蓄音機の音のように、繰り返し、繰り返し、湧き上がり、ゴオーン、ゴオーンといつまでも鳴り止まない。

 他者とのやり取りは、殊に、ああ言った、こう言ったなどと、心に引っかかり、根に持つことも多い。また、全く予想もしなかった出来事に直面しては、動揺を隠そうと、必至になる。平静を装い、無意識のうちに、無視したり、抑えこんだり、隠したり、気を反らせたりする。特に、有能だと言われる人ほど、外見とは裏腹に、そうである。

 しかし、心の奥で鳴り止まず、響いている「心の疼き」のあるがままの心に「心を向ける」というひとときを持てるか否かは、重大である。これは、本来、自分の人生に革命を起こすほどの、最も大切でかけがえのないひとときなのであるが、このことを実感しているひとは、意外に少ないのである。

 確かに、心を構えて、禅寺で禅の修行をしたり、密教寺院で阿字観を修行したり、集中内観研修所にいって、内観をするようなことも、大事なことではあるが、本当の修業の場は、それぞれが、日々、今立たされている人生そのものにある。それは、寺にいようが、家庭にいようが、仕事をしていようが、散歩をしていようが、自動車に乗っていようが、病院にいようが、刑務所にいようが、人と争っていようが、共謀を図っていようが、まさに死に瀕していようが、日々、今、自分が直面している事実にこそ、人生の修行の場がある。そこで、自分自身を感ずることのできるものは、自分の心の疼き、心の奥の声を、声にならない声を感受して、自分自身として生き抜いていける。この当たり前のようなことが、どんなに大事で、得難いことであるかは、逆に、それができずに苦しんできた悲惨な思いをまのあたりにしている者にしかわからないのかもしれない。

 大事なことは、何気ない普段の中にこそある。

 そして、普段は抑え込んでいる何気ない心の疼きや気がかりなことにこそ、自身の、最も肝心な心の問題が潜んでいる。だからこそ、消そうとしても鳴り止まない音があるのである。これを放置していると、次第に蝕まれ、やがて、自分自身を見失ってしまいかねない。由々しき事態に陥ってからでは、取り返しがつかない。それこそ、この人生が終わるまで、如何ともしがたい。

 では、手遅れなときはどうすればよいのだろう。自分を見つめ、理解することが困難な状況は人格をも危険にさらしかねない。そのような状況で、自身を取り戻せるのだろうか。

 しかし、それでも、脳による反応の自分ではない、心の奥の自分自身、いわば深い魂が、そうしたどうしようもない自分自身を、それでも、ちゃんと見ているものがある。だが、病んでいると、その心が表に現われにくく、どうしようもない混乱を巻き起こし、悲惨な状況を呈するのも事実である。

 それだけに、自身の本来の生き方が、心配事、不安や恐怖心、怒りや恨み・・・・総じて、自分の心が、いろいろな物事に遭遇し、対処するなかで、深く傷ついてしまった恐怖心なのであるが、そのことに気付けることは、どんなに奇跡に近いことであり、有り難いことであることか。それを身にしみて感じている人が、どれほどいるのであろう。それにしても、頭脳が混乱し、心すら失わざるを得ない者は、どのようにすれば本来の心を取り戻せるというのだろうか。

 ようやく、明けの空が白んできた。木々に安らいでいた小鳥たちが起き出してチチとひとしきり、おしゃべりをして、一斉に、飛び立った。再び静けさが戻る。

 ふと、対峙する本尊に、(ああ、どうして、いつまでも、こうして、わたしは自分に繋縛されたままなのでしょう。それが、わたし自身であるということはよくわかります。ですから、その自分をあるがままに見つめますが、その瞬間、わたしという自分にハマってしまうのです。しかし、わたしもさることながら、昨日わざわざ訪ねてきた方は、事情があって、自分をコントロールできず絶えず問題を起こしてしまう人でした。確かに、病気で脳に障害が起こり、その人らしさが失われた方もいます。そのような状況にハマっている方に、はたして自己を見つめることをどのようにお伝えすればよいというのでしょうか?)と本尊に問いかけている自分がいた。

 一瞬、黙想の暗闇の中で、光輪がかすかに広がりだし、その光輪の中にさらに三つの光輪が柔らかく輝いていて、そのやや中央より下の方から、一条の光がこちらに差し込んできて、その光が注ぎ込まれる先をたどると、清らかな珠であり、その珠の中には、なんと安らいでいる胎児のようなイノチが輝いていて、その無限の光は胎児の中心にまで、まるでへその緒のように繋げられていて、慈しみに満ちた大いなる光がそのイノチの呼吸とともに引き込まれ、安らいでいる。

 この胎児のようなものは何かと思った瞬間、(お前自身だ)という思いがヒビキ、(イノチはこのようにして、絶えず、見えざる生命の光りに繋がれ、包まれ、絶えず、慈しみ育まれている。そのイノチの源こそ、見えざるものなれども、何よりも確かなイノチのヒビキであり、まさに、グレイトマザーである。聖なる母ともいわれる。イノチはみなこのようにしては偉大な母なる本源に直結した赤心である。人も動物も鉱物も植物も森羅万象このような赤心によって生かされている。人以外は赤心そのままである。人間のみが赤心の心を曇らせている。ひとは天真爛漫でなければ、赤心は輝かない。心を曇らせている自分に気づくこと、これこそが赤心の開眼なのだ)というヒビキがあった。

 さらに、この日、不思議に思うことは、この後、やおら立ち上がり、探しものがあって、めったに開けない寺の戸袋を開いてみたのだが、一本の軸物がホコリにまみれて打ち捨ててあった。なんだろうと思って、開いてみると、なんと、今日の黙想にヒビイてきたグレートマザー(聖なる母)そのものではないか。それは、肉筆の慈母観音であった。

 この慈母観音をまのあたりにして、一層、先程のヒビキがただならないことであったと打ち震えざるを得なかった。ああ、確かに、これは、如来や菩薩方は、まさに、吾々とともに、生きておられ、深く関わってくださっておられるとしか言いようがなかった。この奇瑞をまのあたりにして、感涙を覚えないものがどこにいるというのであろうか。

萬歳楽山人 龍雲好久