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作成日:2018/05/19
心の通信H30・5・12《ヴァヤ ダンマ サンカーラ アッパマーデナ サムパーデタ》

 時折、寺の雑木の茂みや、人気のない物置で子育て中の猫たちに遭遇することがある。

 警戒心が強いのでそっとしておくのだが、大抵は、しばらくすると、どこかにいってしまうのである。とはいえ、中には、寺に住み着いてしまう猫もいる。20年以上も長生きした猫もいれば、2、3年で他界してしまう猫もいる。思い入れもあるのかもしれないが、寺に住み着く小動物を見ていると、一種、神がかり的な出会いを感じてしまう。なにか、切っても切れない深い縁があって、現れてきてくれたのだなと思うことしきりである。心が通うというか、通じるというか、何かとても特別のものを感じ、愛おしいものがある。それぞれに個性があって、全く独立した存在で、まさに、人知を超えた出会いである。

 彼らに、決して私の方からは近づくことはないのであるが、彼らは、いつも、私の傍らにいて、くつろぎながら、天真爛漫に語りかけ、如来様からの大事なメッセージを届けてくれているようで、なにかとても嬉しくなることがある。彼らのその折々のまなざしに触れるたびに、私は、彼らにどれほど、支えられてきたかはかりしれない。特に、彼らがまるごと小生に対しオープンであることが、とてもありがたかった。というのも、とかく、人というものは、自身を含め思惑やこだわりで我を通し、葛藤し、ギクシャクすることばかりであり、彼らのように、まっすぐに生きることは困難である。ことに、彼らの死に際に接したときには、なおのことである。直接生き、直接死ぬ。その様は崇高でさえある。

 死に際に直面したとき、不思議にも心に響くものがある。

 それは、ブッダ最後の言葉であり、ブッダの生涯を通して示されていた境涯である。

 

 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、

 『Vayadhamma sankhara appamadena sampadetha”

(ヴァヤ ダンマ サンカーラ アッパマーデナ サムパーデタ)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」

 これが修行をつづけて来た者であるブッダの最後のことばであったのだが、その真意について、深く理解することは、今日の大半の仏教徒にとっても、人間なるが故にはなはだ難しいといわざるを得ない。ブッダの真意を直智する最大の障碍が、哀しいかな、人間の最大の特徴でもある「思考性」にあるとは、全くの皮肉である。

 ブッダは生涯をかけて、『Vayadhamma sankhara appamadena sampadetha”

(ヴァヤ ダンマ サンカーラ アッパマーデナ サムパーデタ)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』説き続けられていた。

 「人々はわがものと執着したもので悲しむ。(自分の)持っているものは実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである、と判ったあとは在家にとどまっていてはならない。」

 「過去なるものは捨て去られたものであり、未来は到達していないものである。現行する在り方を時々刻々観察するものは、そのことを紛れもなく動かしようもないものとして熟知して心を完成せんことを。」と。

 遍照金剛弘法大師空海はこの、“Vayadhamma sankhara appamadena sampadetha”

 を「真実の義」として、

 「また境界の風に遭うて縁に随つて起滅すといえども、しかも心性は常に生滅なし。この心の本不生を覚んぬれば、すなわちこれ漸く阿字門に入るなり。」と示している。

 この意味は、現象として「縁起生」している表象の顕現・消失(起・滅)しているそれら「虚妄の法」は「静止像」として意識されるため、捕捉されている外界の姿(世俗)と誤って理解されている。人はその外界知覚に相違する表象の推移が意識されるとき、「名色」によって外界を実体的に区別して「言語表現」どおり理解しているため、外界に実体が「生・滅」していると思うのであるが、そのようではなく、「虚妄の法」の表象に顕現・消失が繰り返されているのである。もちろん、「心性に生・滅する実体は本初からありえない」と覚るべきであるということである。

 『Vayadhamma sankhara appamadena sampadetha”

(ヴァヤ ダンマ サンカーラ アッパマーデナ サムパーデタ)ブッダはさらに語りかけられる。

 「死は、持てる者、休息の場[墓場の意昧もある]をもつ者にとってのみ存在する。生は関係と愛着の中の運動であり、この運動の否定が死である。外的にも内的にも避難所をもたないこと。部屋は、家は、家族はもっても、それを隠れ処に、あなた自身からの逃避にしないようにしなさい。

 あなたの精神が美徳を涵養するために、迷信のために、ずる賢くふるまうために、つくってきた安全な港は、避け難く死をもたらすだろう。もしもあなたがこの世界に、あなたがその一部である社会に属するなら、あなたは死を免れることはできない。

 死はいつもそこにあって、見張り、待ち構えている。が、日々死ぬ人は死を超えている。

 死ぬことは不生に帰ることである。ほとばしる不生の美しさは過去の思い出や、明日のイメージの中にはない。不生は過去も未来ももたない。過去や未来に依存するものは記憶であり、それは実相ではない。ほとばしる本源(不生)は、あなたがその一部である社会の枠を遙かに超えている。故に知られているものを終わらせなさい。そうすれば不生はそこにあることに気づくだろう。

 不生は知られざるものの内にあり、そこから来る運動である。あなたはそこには存在せず、ただ運動だけがある。それは背後にも前にも何ももたない。それは思考が触れることのできないエネルギーである。思考は堕落である。

 既知のものは未知のものに触れることはできない。瞑想とは既知のものに向かって死ぬことである。

 静寂の中から、見て、聴きなさい。意識の全体は、それ自身が作り出した境界内部での落ち着きのない、騒がしい運動である。静寂が出現するためには思考自体が静まらねばならない。静寂はつねに今、思考が存在しないときに、存在している。思考は、つねに古いものなので、つねに新たな静寂の中に入り込むことはできない。新たなものは思考がそれに触れるとき古いものとなる。この静寂の中から、見、話しなさい。[本源]の無名性はこの静寂からやってくる。この静寂はその外側にはなく、それは観察者全体の騒音がそこにないときに存在する。

 無垢だけが情熱的でありうる。無垢な人は悲しみを、苦しみをもたない。彼らが無数の経験をもつとしても。精神を腐敗させるのは経験ではない、それらが背後に残すもの、その残留物であり、傷であり、記憶である。これらは蓄積し、他の物の上にさらにあるものを積み上げ、そしてそこに悲しみが始まるのである。この悲しみは時間である。時間があるところ、無垢はない。

 『Vayadhamma sankhara appamadena sampadetha”

(ヴァヤ ダンマ サンカーラ アッパマーデナ サムパーデタ)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』

 境内にしばし集う小動物たちの天真爛漫なさえずりや鳴き声に、風に踊る新緑の揺らめきに、ブッダのひびきを聞く思いがするのである。

萬歳楽山人 龍雲好久