いただいた絵本には、水を凍らせて撮影した水の結晶がいくつか掲載されていて、それは美しい六角形の様々な結晶の写真であった。日本に限らず世界中の水の結晶を集めて写したものらしい。驚くべきことは、水を凍らせてできた結晶が人間の言葉や音楽に反応すると言うことであった。
たとえば、水に優しい慈愛のこもった言葉を投げかけると、実に美しく調和のとれた個性的な結晶となり、試しに誹謗中傷や怒号を浴びせかけると、結晶は傷つき破壊され、歪み、汚れ、ヘドロのようなものと化す。
水を採取したビンに慈愛に満ちた言葉か悪意に満ちた言葉の文字を書いて貼っておいても水の結晶は同じように反応する。水が言葉を受け取るということが証明されている。
似たような話は日常でもよく耳にする。花や野菜を育てているときに、優しく愛情を込めた言葉をかけると、草花はよく成長し、美しい花や実をつけるという。逆に、けなし、不平不満、罵声を浴びせていると、草木の成長は悪く、枯れてしまうという。
学生の頃、僧侶の修行を漸くはじめたころ、我が年老いた師匠が「何事にも感謝の心が大事だよ。特に、普段当たり前のようにして、気にもとめていないことにも感謝が大事だ。たとえば、夜休むとき私は寝間着を押し頂いて「ありがとう」と感謝してから休む。すると寝間着がよく協力をしてくれて、そのおかげでぐっすり安眠できる。目覚めたら、寝間着をたたみ、押し頂き「ありがとう」という。仕事着を着るときも同様にしている。身近にあるものすべてのおかげで、自分は元気で尊いご本尊さまにお仕えさせて頂ける。そう思うと感謝せずにはおれなくて、また、感謝すれば、それらのものたちはよく協力をしてくれる。君が仏典の経文を写すときに、この硯と墨と筆と半紙のおかげで、自分は得難い仏様の教えを写させていただける。こんなもったいない尊い機会は滅多にはない。硯や墨や半紙や毛筆に、ありがとう、ありがとうと感謝を込めながら、墨をすり、経文を写させて頂く。そうすると不思議に墨や硯や筆がよく協力してくれて、生きたお経が写せるようになっている。不思議なことだが、私はね、この年になるまでずっとそれを実感させていただいているのだよ」とまるで独り言のように弟子に強いるわけでもなく、ご自分の生き様そのもので示してくださっていたことを思い出す。「天地自然には霊妙なる不可思議なる見えざる力があって、それらはとうてい私どもの人工の産物の及ぶところのものではない。その霊妙なる天地自然の見えざる加持(めぐみ)に感謝し続けてみたまえ。ありがたいことに、天地自然はよく感応して、協力してくださるのだよ」と、病弱な我が母を励ましてくださるお方であった。
この「ありがとう」と何気なく使っている言葉だが、この言葉の響きには実に大きな力があり、人々の〈こころ〉、天地自然の一切の〈こころ〉と加持感応同交せしめ、奇跡のみわざをもたらすまことに偉大なものであり、「ありがとう」は決して侮れない。だいぶ前であったが、このことを目の当たりにしたことがある。ある末期の膵臓ガンを煩い、余命わずかの宣告を受け、落胆し打ちひしがれていた方が、悶絶する激しい痛みのさなか、最後の望みとして、医師の内諾を得て、自分が長く信仰してきた宗教教団の施設に一ヶ月ほど籠もったのだが、なんと驚異的に元気を回復し、生き生きとした表情で東京から福島の自宅に帰宅した。私は、その宗教のことはよく知らないが、あの絶望の淵に立つ独りの人間をこれほどまでに劇的に変え、明るく喜びに満ちた生き生きとした人間に生まれ変わらせた力とは一体、何であったのだろと不思議に思って、その方に、その研修の内容について伺った。それは、意外なものであった。ただひたすら「ありがとうございます」と自己の人生のすべてに感謝し続ける一ヶ月間なのであった、研修中、行住坐臥、ひたすら「ありがとうございます」と言葉にし、念じ続けていたというのである。この方は、それでガンが消えたわけではなかったが、しかし、余命宣告以来、その宣告された期間よりも遙かに生きられて、しかも、最後は痛み止めも効かない激痛の中ではあったが、まなざしの奥にはありがたき安らぎの光明を見据えておられるようであった。
そういえば、遍照金剛弘法大師空海大和上は病を得ていた天皇を見舞われて、「加持香水」を献じられたが、その加持香水とは、大師が如来の大慈悲心と深く感応同交されて、その慈悲心が水をして清浄なる功徳水に転じせしめたものであった。
だが、それは秘儀という特別のものというより、むしろ、見えざる如来の大慈悲心の恩を感じて、「ありがたい」と思う心にこそ如来秘儀が潜んでいるという証しであった。まごころが水そのものに作用し、水自身に功徳の力を生じせしめたのであろう。遍照金剛弘法大師空海大和上が「加持とは 如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影 衆生の心水の現ずるを 加といい、行者の心水 よく仏日を感ずるを 持という」と示されている。
寺に随身しながら仏教を学んでいた自分は、実に様々な宗教現象を目撃しつつ苦悶葛藤の絶えない日々を過ごしていた。ある時、寺の激務の合間に、ふと、目にしたテレビ番組があった。ある科学者が植物にも〈こころ〉があるということを証明しようとするものであった。植物に様々な電極を差し込んでその植物が発する調波を検知し、音声化したりグラフ化していた。それによって犯罪現場の植物の目撃反応を引き出そうとしたり、電極を差し込んだキャベツの側で、別のキャベツを切り刻んだときに、もう一方のキャベツはどんな反応を示すかなどということを調べているところであった。なんと、キャベツが切り刻まれるまさにそのとき、別のキャベツが悲鳴に似た深い悲しみの音を発したのである。微細な電流をキャッチする方法なのであろう。確かに、植物は反応を示した。それに気づかないのはわれわれの感受能力が粗雑すぎるからだという。しかし、天地自然はこうした微弱な電気や磁気によって、お互いに感受し、コミニケーションする〈こころ〉を持つというものであった。
今日、より精妙で微細な世界を検知・観測できる自然科学が発達し、いままで知り得なかった世界の仕組みが次第に明らかにされつつある。そこで、最も重要なことは、万生万物は〈こころ〉という精妙なネットワークを通じて瞬時にコミュニケーションをはかっているということである。
その〈こころ〉というものは、単に脳という一部の働き、知識や概念、あるいは条件付けられた潜在意識や表面意識などといった範囲のものではなく、極微の世界においても、極大の世界においても、すべてに具わっている〈こころ〉というもので、常に全一のものとして、生の全体性そのものであり、その全体性・全一性が大宇宙から大自然界、そして天地自然のすべてのコミュニケーションのベースとして刻々に作動している生きた響きであること、そして、その大調和の響きによく〈こころ〉同士が感応同交するように、互いに「ありがとう」と加持感謝の〈こころ〉で行住坐臥に生活することが大切であるということであろう。
しかし、やはり、心が乱れてしまえば、この「ありがとう」が素直に感じられないし、我が心は乱れるばかりであるのも事実だ。まず、ありのままの自分を自覚することからはじまらねばなるまい。
ありがたや あじのこが あじのふるさとたちいでて また たちかへる あじのふるさと
萬歳楽山人 龍雲好久