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作成日:2018/09/20
心の通信H30・9・8《阿字本不生(彼岸と此岸に遍在するイマ・ココロ)》

 明け方の激しい雨もやみ、どんよりとした曇り空も夕方にはかすかな晴れ間が差し、寺の北側にある小さな池の花を終えたばかりの蓮の葉群を美しく映しだしていた。

 夕暮れの少し濃いめの日の光に会うと、幼子の頃の安堵のような気持ちがして、どこかとても懐かしい。バタバタと無我夢中で必至に生きてきて、何気なく広間の障子を開けてこの景色に出会うと、ふとわれに帰るような気がする。われに帰るといっても、自分に固着するというのではなく、慈しみに包み込まれている感じがして、落ち着くのである。いつも自他相克の世間の中にあって、溺れまいと必至にもがいているものが、ちゃんと浮いていると気づくようなもの。「あなたはあなただよ」と自他の葛藤から解放させてくれるかすかな安堵感。ほんの一瞬に過ぎないものだが、光が透けた柔らかな蓮の葉の光に見とれていると、どこか、とても懐かしい。赤ん坊の時に親に抱かれて見ていた幸せの光。病弱で四六時中苦しんでいた母が、今日はどういうわけか機嫌がよく縁側でくつろいでいるときに感じていた穏やかな光・・・七十年近く生きてきて、なお、心に残るかけがえのないひとときの安らぎが奥深くから蘇ってきてありがたい。

 この夏の気候の異常さは極端なものであった。激しい豪雨の災害に苛まれるところがあれば、日照りに悩まざるを得ないところもあり、極端な気象変動の傾向は年々増している。気温が38度Cから40度Cともなると、外はキーンとして、全く無音。蝉すら鳴かなくなる。めったに経験したことのない夏であった。

 この激しい夏、寺は盆供養の日々を過ごす。特に、関東の寺院では、この時期に施餓鬼供養が随所で行われる。小生も、この年になりながら、いまだご恩のある寺を数ヶ寺まわり盆施餓鬼供養の手伝いをするので、この時期は最も苛酷なものとなる。

 こうした寺の行事は単なる慣習や感傷的、あるいは感覚的なものと思っている方もあるかもしれないが、寺に住んでいると、盆の時期はやはりあの世とこの世の仕切りが解かれて、あの世に移っているココロとこの世に生きているもののココロが、その願いや祈りに応じて、身近に通い合う時期であり、特別であるように感ずるのである。

 この現象界は物質化という条件付けがあって、我々の本来性の極一部の感受性を元に生活し生きていかざるを得ない。それは、人間のみに限らず鉱物・植物・動物、万生万物それぞれの条件付けの元にこの現象界に森羅万象として顕現しているが、その本体・本質・実相は物質化している現象と物質化をささえる潜在象が一つの生命体としイマ・ココロによって統合され、時々刻々に歴時的に更新されている。イマ・ココ(ココロ)は、現象界と潜在界を一体化させるエネルギー、すなわち潜在された時空量子の顕現化であり、本不生が実相顕現するものの基盤となっている。この実相は潜在現象であるがゆえに、我々の脳が感受し形成する心象における時空感覚やイメージやビジョンとは全く異なる別次元の現象でもある。

 わかりやすくいえば、我々が感じている心象は脳という記憶装置に記録された「先験より刻々とイマに経過し消失する」イノチの顕現であるが、記憶されたものはすでに過去のものであり、記憶に基づいて構成されたものは記録されたものの再現であって、イマ・ココの実相ではない。録音は録音されたものの再現でしかなく、録画は録画されたものの再現でしかない。それは、顕現の実像ではなく、断片的に切り取られた過去のものでしかないことと同様である。実は、この現象界における我々の条件付けの最たるものがこの脳の働きによるものなのであるが、しかし、この脳の働きが刻々に顕現し続けるイノチを感受し、それを記憶することを通して、概念や虚像を形成し、あたかも実体と錯覚する。この我々の虚像性が我々の条件付けを強化している。

 現実はイマ刻々なのに、繰り返し放映される映画の世界にどっぷりつかっているようなものである。バーチャルリアリティと現実を乖離させている状態が問題なのである。

 それは、盆に精霊をお迎えしたり、施餓鬼供養で悲惨な戦災や震災・事故等で亡くなったかけがえのない御霊の供養においても、我々の記憶の範囲、我々の心に残る思い出の範囲で、亡くなった祖父たちを偲び、何気なく供養を捧げていることにおいてもいえることでもある。

 大切なことは現象は潜象と一体であり、この世から消えたというのは現象の一面である生滅を指すが、現象と潜象の生滅に関わりなくそれを顕現させるイマ・ココロというイノチは、次元を超えて、イマココに刻々と生きているということに他ならない。そして、不思議なことに、この現象界に条件付けられた我々には、この見えざる世界のイノチが縁生を通して、必ず、応答があるということである。

 それは亡くなった精霊がかつて生きた姿で夢枕に立つというようなものではなく、生きたココロとしてイマに現象化してくるのである。

 この世に生きる我々は、妄想によらずあの世を見ることは困難だが、知ると知らざるとに関わらず、先だった方々、七世の父母、六親眷属のイノチはイマ・ココロとして、この世に生きる我々と深く関わってイキており、風や光とともに我々に優しく語りかけ包み込む。

 とかく、条件づけられた心というものは、孤独という地獄の苦しみに陥りやすく、いつも激しい葛藤や闘争や悲しみを引きずっている。苦しみの業火と連鎖はなかなかとどまること知らない。

 それでも、ふと、供養の合間に吹く風や耳に聞く雨だれの音、夕べの祈り、晩鐘に、実相はすべて一つのイノチとしてかけがえのないイマココにあるものの尊く等しきイノチであることを響かせている。このことに気づくときは、安心が漂うものである。イマココに生かされているありがたさをしみじみと感じるのである。

萬歳楽山人 龍雲好久