朝まだき御堂の御前に佇むと、時雨がときおり降りかかる。冷たい雨になった。
心身を正し、御堂に入ると、そこには佛の深い沈黙が漂い静寂があった。
その閑けさを頂きながら、祈りのための支度を調える。お灯りを点し、お香を薫ずる。さて、整え終われば、ご本尊の御前に独り立ち、本来清浄なるおのが心である蓮華を観じ、蓮華のごとき合掌をし、まず、御佛の御尊顔を真っ直ぐに拝す。愚か者である我が目に映る御佛の御尊顔は、全き静けさの内にも、得も言われぬ穏やかで滋味にあふれていてお優しい。(おお!今日も御佛に拝し奉ることができた。ありがたい)と、身も心も引きしまる。御佛はいつも毅然として静かである。
先ず、淨三業にはいる。
「すべての生きとし生けるものの本性は、本来、清浄である。」
然れども、いま、御佛の御前に立つわれは、現象の様々な関係性に触れて、煩悩である自我により、心も体も、千々に乱れ、迷い、苦悩に喘ぎ、煩悩に覆われ、真実を未だに見出せずにいる。尊き気づきと悟りを迷失し、生死の苦海に溺れ、その苦しみは際限もない。そのおのが日日のあるがままの姿が沸々と湧き出でて止むことがない。
「それ故、御佛は、わがために、三密加持を説かれて、自他ともに清浄になることを得させようと、いまここに顕れておられる。さあ、両手を持って蓮華の如き合掌して、自身の身と口と心をあるがままの所業を観察しよう。そして、御佛の真言の御音声が響き渡っていることを感受し、自らも響かせよう。」
「オーン ソハハンバシュダサラバタラマソハハンバシュドカン」(淨三業の真言)
それは、まさに、「おお! 尊く自性清浄なる一切諸法よ。すべては自性清浄なり。」という響きである。
三密加持とは音叉のように御佛の心と私どもの心が共鳴することである。自我が静まりかえることによって、初めて、御佛の深き響きが自分自身に響いてくる。自身が御佛の響きに調和し満たされるということ。身(おこない)も口(ことば)も心(こころ)も、御佛に調和し、本来無心のあるがままの心となれるということである。
このように、僧侶(修行者)であるものは、先ず、御堂である道場に入るとき毎に、本尊の、御前に対して、身をただして立ち、蓮華合掌して、目を閉じて、心をめぐらして自他のすべてをありのままに観察する。
そして、さらに、修行者は五体投地の礼拝をし、曼荼羅壇を設置し、曼荼羅会の諸尊佛と三密加持し、感応道交を得る。終わって、修行者は、壇から退いて、再び、僧侶(修行者)であるものは、御堂である道場から出る毎に、本尊の、御前に対して、身をただして立ち、蓮華合掌して、目を閉じて、心をめぐらして自他のすべてをありのままに観察する。御佛の大慈大悲の慈しみの響きが御法縁をいただく先師先祖代々六親眷属七世の父母、すべての生きとし生けるものを擁護し加持し賜らんことを祈念し、御堂から出る。
10月ともなると、朝方のお堂は暗闇の中であるが、修法が済む頃は、東の空が漸く白んできて、麗しい黄金の光が輝き出す。雨もすっかり上がって、今日はどうやら晴れるようだ。
ところで、御堂や道場というのは我々の生かされ生きている世界の場そのものであり、修行者というものは生かされ生きているわれわれ自身を含むすべてのいきものであろう。そして、その様々な修行者たちが直面し立っている修行の場とは、現実には、修羅場のごとく、激しく、厳しく、矛盾に満ちており、想像を絶する困難な世界である。まして、局所性と遍在性が互換重合しているこの現象界のドロドロとした混沌の中では、繰り広げられることすべて、あたかも、ブッダが指し示された本性とは真逆の方向、自己保存と自我我欲の煩悩がうごめく世界であり、道場としては最も厳しい道場であろう。大なり小なり自己の見識と見解にうぬぼれ、固執し、互いに相克し、さらには、力による支配、拒否、廃絶。巧妙な侵略と搾取が見え隠れする欺瞞の構造に陥るばかりである。そういった人間のエゴイズムを基盤とした傲慢なものの権力と支配は、一見、社会の安定と繁栄を指向しているかのように装うのだが、その獣のような牙は、対立の構図の中ですぐに露見してしまう。これは、われわれでいえば僧俗、老若、男女、有能、不能を問わない。本性が同じであればいかに巧妙で正当な論理の仮面をかぶっても、いわゆる獣のような心を露見する。このような心は、すぐに社会を分断し、貧困、有能不能の差別を生み、暴力と破壊を際限もなく繰り返し、人類を破滅に追い込むことになりかねない。まして、今日のようにグローバル化された社会にあっては、たとえ一部のものとはいえ、権力の座にあるものの資質によって、世界中がこれほどまでに侵略や搾取の恐怖に翻弄され、苛まれる事態に陥る。このショックは現実にあらゆるモノに影響を及ぼし重大な危機を招く。その結果、人々の悲痛な叫びや苦悩を前にして、人は、なすすべもなく、ただ、見ているしかないのであろうか。そういうわけにはいかない!
昭和51年5月末、浅草の八起ビルの三階で、わが一人の恩師と二人で時を過ごしていたとき、師が、やおら独り言のように私に話し聞かせてくださられたことがあった。
当時、この師は、このような人類の愚かで悲惨な状況を前にして、身を粉にして、大衆のみならず一人びとりの苦悩と真剣に向き合いながら、「目覚めよ」と正法真理を獅子吼されていた。晩年は病を患いながらも必死の念いで、人々に正法を流布すべく、痛々しいまでに法を説き、壮絶な最後を遂げられた方であった。その師が、その最後に、そばに控えていた私に向かい、「この世に身をもつものには限界がある。君も私のような最後になるかもしれないから、十分気をつけなさい。しかし、昨夜、如来たちとかなり深刻な話し合いとなったのだが、この世で、私が、人々に、いくら悟りを促しても、残念なことであるが、自ら目覚め、動き出すものは一人も現れてこない。そればかりか、不安な時代ほど、人々は影響力の強い一人のカリスマやリーダーに依存し、盲目的である。自分のことばかりに汲々としている。人類の歴史はこのような愚かさの繰り返しであり、進歩や進化とは裏腹に、自己にとらわれ、モノに執着し、狂乱に満ちた繁栄と悲嘆に溢れた破壊を繰り返すのみである。不安と恐怖に苛まれ、現実逃避するばかりで、自身の本来性に目覚めようとは決してしない。それどころか、警鐘を発する人類の叡智を目の当たりにしても、嘲り笑うものばかりで、何が滅亡をもたらすものかを見極めようともしない。破滅の方向に向かう人間の欺瞞性こそが大問題なのだが、神や正義の名の下に侵略と破壊を繰り返し、多くの人々を犠牲にしてきた。その欺瞞性に気づき、そのものを止めない限りは、人類に決して未来は無い。
私の肉体も、もうすぐ尽きる。しかし、私は、必ずやあの世の如来とともに、人類一人びとりの心の扉を開かして自己の本性に目覚めるべく働きかけるであろう。君も、本性を見失うこと無く、ひたすら、自らをただして、あるがままの世界を凝視し、何が真実で、何が偽りであるか。偽りの中に真実を見、真実の中かに偽りを見いだしなさい。」と述べられ、今後の人類の動向について語られ、その不可思議な働きを通して、潜象の世界の如来・菩薩・諸天善神たちがいかにして心を痛めつつも、必死に破局に向かう人類を導こうとされているかを私に語られていた。おそらく、師は、私が真言僧であるので、そのような、師ご自身のあるがままの念いを、息を引き取られる直前に、私に話されたのであろう。
はたして、現代は、この師が最も案じておられた最悪の方向に向かっているのだろうか。案じられるのは、この寺に如来からさまざまな形象が与えられ、警鐘が鳴らされていることが続いていることである。
故に、真言秘密のことなれども、師の必死の思いを全ての人々に伝えたくここに記した。
「どんな状況に追い込まれようとも、生かされている限り外界に翻弄されない不動の心を開き、いつでもどこでも行住坐臥、時々刻々と心を発して、御佛に対し、三業を清浄ならしめ、三密加持をいただきて、おのれ自身の本性を開き精進していきなさい。」と。
萬歳楽山人 龍雲好久