早朝、目が覚めると、いつもの通り、支度を調えて、本堂や諸堂のご本尊を始め多くの諸如来・諸菩薩・諸天善神や祖師先?の諸尊に参拝・供養させて頂く。
礼拝をし、諸尊に対峙させて頂いた途端、光に満たされ、湧き上がる感受のままに、じっと心の耳を傾けた。その感受はこうであった。
●目覚める。漸う白む。小鳥たちも目覚め、朝の香りとともに水に触れ、口をすすぐ。朝の覚めとともに私は、この世界で動き出す。私が見なければ、世界は無く、世界が無ければ、私は見れない。
私は、記憶を纏い、昨日からの世界を引き継ぐ。いま、新たな記憶を刻み、新たな世界に生きる。
そして 一日の終わりに、床につき 私は眠る。そして、けさ、目覚め、おきだした。
この私はどここから来て どこに行くのだろうか。
●私があって 世界がある。私が無ければ 世界は無い。しかし、世界は 私が無くてもある。私は世界を見聞きするが、世界が無ければ私は無い。私が無ければ、世界は見れない。私が無くとも 世界はある 世界は何か。私とは何か。
これが、この現象界、この世(此岸)の掟なのだろうか。
●思考は 私であり、私は思考である。私が鎮まれば 思考は静まる。思考のざわめきが私である。私の思考がざわめきである。いま、この思考のざわめきに気づいている。思考が静まり、心は鋭敏になり、限りない広がりにある。見るもの見られるものの境界なく・・・・
●彼岸と此岸。この世とあの世。現象と潜象。いまここと先験性。局所性と遍満性。一者と遍在。先験なる遍満性から局所化され現象化する。個々が世界、個々は絶えず遍満している先験なる彼岸に帰入してとどまることを知らない。気づきなさい。気づきなさい。「遍照金剛」は遍照と金剛。遍照は遍満性、金剛は局所性、すなわち大日如来と金剛薩?であり、全てはあなた自身であることを・・・。
●信仰は 順応ではなく、模倣ではなく、服従ではない。
たえまない大慈大悲に気づくこと それが、信仰の唯一の規律。
正しい生活は妬みや貪欲や渇愛に縛られているあるがままの自分に気づくところからはじまる。
●心が目覚め、叡智があり、なにものにも囚われない。
それが光であり、それがあなたの本心。光求めて幾星霜。しかし、
あなたはもともと光である。それゆえ、光は光を求めたりはしない。
●慈しみは、だれもが どんなところででもいただくことのできる尽きせぬ泉。分け隔てのない慈しみである。あなたが分け隔てのない慈しみにあるとき、安らぎがある。
●こんこんと湧き出る清水は止めることができない。湧きいづる先から流れ去る。留めれば瞬く間に古くなり、汚れてしまうだろう。留めようとしなければ、いつも新たなる清らかな水をいただくことができる。彼岸から湧きいづる本不生は無垢から無垢へと、とどまることなく 絶えず湧きいづる慈しみ。
そこに 安らぎと、秩序と、美と、創造がある。
●日常の枯渇のなかには 渇愛の苦悩や生老病死の苦悩がある。そのあるがままの日常の奥に汲めども尽きせぬ慈しみの清水を頂きなさい。
●日常のあなたの生活の中にこそ汲めども尽きせぬ慈しみの清水が、いつでもどこでも 蕩々と いまここに湧き出でいる。この本不生の清水を頂くことが、あなたの日常の生活であり瞑想である。
この感受はほんの一瞬のことであったが、心に余韻を残すものであり、普段の生活に戻ってからも、しばらくは思念をめぐらざるを得なかった。それと同時に、響くものがあり、それは、次の、龍樹の「縁起生」の一説である。
●「滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。一たるものでなく、区別あるものでない 来るのでなく、去るのでない。その方は戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者である。そのような最勝の方に敬礼する。」
これは、「心の通信」で度々引用する龍樹菩薩の『般若論』の巻頭言の「帰教偈」である。龍樹の『般若論』は一般的に『中論』として知られている。仏教の真理を探究する「論書」で極めて難解である。
ブッダ自身が書き残されているものは一切ない。ブッダと対話した弟子たちがブッダ滅後何度も集まって、互いに確かめ合って、文書として「経」や「律」や「論」として編纂し、これらを仏教徒が学すべき三蔵として、今日に至るまで「仏教」すなわち「ブッダの教え」として伝えられた。その量は極めて膨大な量となっている。すでに、龍樹の時代にも仏教は様々な見解に基づく論書が乱立状態にあった。覚者龍樹は戯論を論破し、ブッダ親説を浮き上がらせ、ひとりびとりの覚醒を促した。この龍樹の『般若論』の「帰教偈」における「縁起生」はブッダ親説の核心であり、根幹である。故に、いかに仏教が今日に至り発展してきたものであっても、この核心を外せば、仏説ではなく、蒙昧な宗教にすぎなくなると、強く警鐘を鳴らしている。
この警鐘は現代においてなお重大事であろう。というのも、人間はどうしても認識において根本的な過ちに陥りやすいようにできているからだ。
ブッダは現象世界を「虚妄の法」と見抜かれた。これまで、世間一般の常識がこれに反して、知覚された表象を静止的に記憶し、抽象し、実体的観念とし、それを外界に投影し、外界を記憶と重ね合わせ、外界のものを実体として、言語的、概念的に認識し把握する構造を虚妄の法として否定された。記憶や概念の色眼鏡で見ていて、実相を見ていないとされた。「実相は知覚表象の原因となる変動が過去と未来の境になる今として経過しつつ、新たなる今に替わられて消失する空である」と見抜かれた。この実相における空こそがブッダ親説の根幹であり、それは今も変わらないことであろう。
しかも、戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者ブッダは、覚りの境界を指し示すのではなく、ひとりびとりの覚醒を対話により促された方である。人々の苦悩が認識の構造の誤り、すなわち、自己欺瞞にあることを、ひと自身が自ら気づくよう、対話を通して促された。
その説示は次のようであった。
ひとは苦しみや葛藤からのがれるために、さまざまな瞑想をあみだしてきた。しかし、それらには、欲望や意図と同質の達成しようとする衝動をはらんでいる。ゆえに、絶えず、未だ至らざる未達のものから到達し得た已達のものへ向かわんとする衝動が、さらに葛藤を生じさせている。
瞑想を得ようとする努力こそは、かえって瞑想を否定することである。
苦しみや葛藤から逃れようと、さまざまな瞑想法をあみ出しているものは、思考である。
この思考がやまないかぎり、瞑想は顕れない。あの、時間を超えた、全く新らしい刻々の真実は開かれない。表象や言葉や知覚のすべてを駆使した巧妙で欺瞞に満ちた思考に気づき、その思考が全くやんでしまうとき、そこに瞑想がある。思考がやむとは概念や思いのめまぐるしい動きがやむことであるが、眠りこけることではない。思考はやんでいても心は極めて明晰であり、活発であり、しかも、雑音がなく静かである。思考という抵抗になる摩擦がないのだ。
瞑想のさなかにある心は全く静かである。
「瞑想のさなかにある心、それは、刻々に変動する過去と未来の境になる今として経過しつつ、新たなる今に替わられて消失し、決してとどまることのない空の本流のさなかにある心である。それは寺院や教会や聖なる場所にいるからといって触れられるものではないし、熱心な祈りや、陀羅尼や経典を捧げたからといって触れられるものではない。いかに高邁な精神や崇高で敬虔なる精神を掲げようとも、獲得せんとする欲望や願望が働いている思考の枠内にある限り、その思考が編み出す虚妄の平安や慰安にエクスタシーを求めようとも、思考が抵抗となって雑念の渦を巻き起こし、決して静謐なる空の本流に触れることはない。
本来の心(本不生心)とは、全き静けさとともにあふれる空の本流すなわち大慈大悲のほとばしりである。
このほとばしる空の本流・大慈大悲慈には、どんな分離もなく、ーも多もない。
本来の心である慈しみのほとばしりによって、すべての分断や分裂は消える。」
このように、ブッダのヒビキには計り知れないものを感ずる。特に此岸に自己の起点を置くわれわれにとって、ブッダの親説の厳しさに、全く、圧倒されるのである。しかし、ブッダは。決して、此岸を超越する、彼岸の境界にあっても、その立ち位置は決して、見えざる超越世界の神々との合一によるエクスタシーや忘我に陶酔する隔絶した処にはおられなかった。実に、今、共に生きているひとりびとりとともに、ひと自身が自ら覚醒するよう、対話を通じて、促されておられた。
しかし、かく語る小生を含め、我々は仏教を高く掲げ、喧伝布教をすることはあっても、けっして、人々の覚醒を自ら促せないでいる。それはとりもなおさず、自身が相も変わらず、自己欺瞞に陥っていて、覚醒していないからに他ならない。
だが、どんな時代に合っても、見失ってはならないブッダ親説の響きをひとりびとりが感受できなければ、安らぎは訪れないものである。
ブッダ親説の響きは誰よりも身近なところで響き渡っているというのに・・・・・
合掌
萬歳楽山人 龍雲好久