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作成日:2019/07/20
心の通信R1年7月9日《量子力学と祈りのこころ》

 この寺の境内の一角に隠れキリシタンのマリア観音と目される自然石が残っている。

 めったに、訪れる人はいない。たまに隠れキリシタンの歴史に関心のある方が尋ねてこられるのだが、数十年に一度ぐらいのものである。しかも、隠れというくらいだからキリシタンの文献については、寺には全く残されてはいない。桑折町には銀山跡もあり、こうした隠れキリシタンの痕跡はこの寺ばかりではなくほかにもあるのだが、こうした資料がまとめられた形跡もない。

 しかし、小生にとっては幼い頃から身近なものであった。特に、寺の子供だからと言って聞かされた古老達の石にまつわる話しは興味深いものであった。「この石はね。不思議な有り難い石でね。ある日のある時間帯にマリア観音様が出現するんだ。」子供が「お爺さんは見たことがあるの?」「いいや、残念だが、見たことはない。しかし、見たという人もいる。どうも、本当らしいんだ。あんたも、注意して見ていてごらん。」という話を聞かされて、本当にマリア観音様が現れるのだろうかと、子供心にずっと気になっていた。また、そのような言い伝えを耳にした学者さん方が尋ねてこられることもよくあった。その度に、その話をしたお爺さんは案内役を頼まれたという。研究者達によって、この石は確かに隠れキリシタンのマリア観音であるとされている。近年になってある研究者からいただいた調査資料を見てみると、当時のキリシタン弾圧は世界的に見てもかなり厳しい弾圧であった。幕府の上杉藩に対する徹底した手配ぶりが記録されている。

 だが、法圓寺に残るこの石は処刑された殉教者の血生臭は感じられない。むしろ、篤い信仰の安らかな響きすら感じる。それは、当時の権力者に逆らうよりも、神の愛を信じる者を同じ家族として見ていたこの地の人々の深い愛情を感じる。日本人には、どんなものであれ、我がことのように感じ、また、神を敬い、祖先に感謝して生きてきた。また、どんな権力もこころの奥にまで踏み込み支配することはできなかったのであろう。

 おそらく隠れながらとはいえ、救済を願う祈りは、かなり命懸けの真剣なものであったに違いない。

 しかし、いまここにある朽ちた石はそのような篤い信仰より、見まもり給う慈しみが漂い、黙する石であり、祈りの石であった。

 このように石が生きていると感ずることはしばしばであった。しかも、不思議なことに、世界中で大災害が起こる度に、決まって、マリア観音が石に顕現化するように思われてならない。はっきりしたヒビキとともに顕在化する。そのヒビキにこころを澄ませると、「祈りなさい」「祈りなさい」「ひたすら祈りなさい」と響いてくる。

 この石の隣にはほかに「雷神」と刻まれた石と風化してまった「古峰ヶ原」と刻された石がある。また、それらの石の側には権現堂があり、「天神さま」と「秋葉権現さま」と「愛宕権現さま」が祀られている。これらの神々が祀られる時は、決まって、大災害や大飢饉、戦災などの傷ましい悲しみの歴史が刻まれている。その地獄の苦しみの呻き声が、いかに、真剣に天地自然や神々に救済を祈ってきたことか。そして、こんにちの私どもに対して、「奢るなかれ。敬虔であれ。神の救済を祈るなら、観世音の如く慈しみ深くあれ、神の子を愛するマリアの如く互いに愛せよ」と響いてくる。このヒビキはこんにちますます強くなっている。

 そういえば、数日前、量子医学が専門という医師方が、この隠れキリシタンのマリア観音のことを耳にして、お参りされている。その方々の様子から、ふと、この方々は紛れもなく隠れキリシタンのマリア観音のヒビキと同調している人たちに思えた。人類救済の神のこころ、慈愛の担い手として同調し、苦しみの現場に顕現している方々であった。たしかに、そう思ったのである。彼らは語る。量子力学は物理学として神の領域、こころの領域、祈りの領域を解明しつつあり、人類の真の救済に導くものであると確信すると。

 この医師達の思いがけない最先端の高度医療の現場の話を垣間見て、確かに、これまで、科学と宗教はカテゴリーが異なるとされ、科学者が宗教や神秘主義に立ち入ることはカテゴリー違反とされた時代は終わり、宗教と科学は万物の理論として量子力学の進展によって確立される時代に入ったのかも知れない。

 宗教はいかに貴いものであっても、人間の独善性によって世界を破壊している。しかし、苦悩の現場で常に人々とともにある者は、まさに、菩薩であり、救済者である。

 その、苦しみの現場の最先端で働く医師たちの熱い話に触れ、こころが打ち震える思いであった。

 彼らが去った後、ふと、あらためて隠れキリシタンの石の前で佇んでいた。すると、黙する石が、こう語りかけてきたような気がした。

 石といえどもこころがある。それは量子力学によって明らかにされている。電子といえども個性を持っている。ミクロ宇宙においてもマクロ宇宙においても、全ては個体としての意思(こころ)を持ち、対話をしながら、全体として統合されている。しかし、意思は人間の頭脳における意識とは異なる。意識は記憶と経験における虚妄性にすぎない。意思は、脳に依らない個体そのもののいまここにおける直接のこころである。

 宇宙のあらゆる個体は全て個体同士、いまここの場(ネットワーク)を介して刻々に互いに個としての心を持つが故に、「対話」により通じ合っている。この対話の本質はそれぞれの個体が完全な個体であるが故に、他の完全なる個体と対話をする。不完全で分断したものはすでに個体としての顕現は止まり、分散消失するのみであるから、存在できないことを示している。

 全宇宙におけるこれらの個の対話は、宇宙のあらゆる階層で共有している「光子」によって行われる。この現象界は局所性が個体化したものである。干渉現象(波性)はこの個体の対話の結果によって生ずる属性といえる。また、局所性と遍満性の対話(互換重合)の結果として、万物が流転するが、人間の脳が把握し、外界に投影する虚妄の実体の流転を指すのではない。さらに大事なことは、いかなる個体も意思を持ち、その意思は宇宙の意思と同通しているが故に、間違いなく「あなたは世界であり、世界はあなたである。あなたの意思は、あらゆる宇宙に影響を与えている。世界を滅ぼすことも、世界を救うことも、あなたの意思如何にかかっているといえる。その意思とはこころである。そのこころはイマここに祈りとなって響いている全宇宙の意思である。」

 故に、この隠れキリシタンの石の沈黙の祈りは、全宇宙の調和への祈りであり、量子力学が新たな時代を切り開く祈りであり、日本の令和という新しい時代の祈りであり、世界平和を切り開く祈りとして相似性の如く全宇宙に呼応しているに違いない。

 

合掌

萬歳楽山人 龍雲好久