塔婆を書いていると、校庭で遊ぶ小学生達の声がよく響いてくる。今日は、久しぶりの穏やかな晴れ間であったが、外で遊ぶ子供達のはしゃぐ声がこのように聞こえるときは大抵翌日は雨降りである。
久しぶりに聞く、元気の良い、陽気な子供達の声であった。そういえば、大震災直後の放射能汚染の不安は、この子供達の声を奪ってしまった。しばらくの間、学校は異常に静まりかえり、雀たちさえいなかったような気がする。
まして、今年は、台風や大雨で激甚災害を受けている。それだけに、こうして、校庭で遊ぶ子供達の声を聞くと、いささか、安堵する。子供達は意外にたくましい。
自分が小学生の頃は、今頃の季節の日差しに、どこか安心感があった。下校するやいなや、真っ先に境内の甘柿の木に登り、ひとり秋晴れの高い空を眺めつつ、美味しい柿の実を頬張る。遠くに、子供達のはしゃぐ声を聞きながら、ゆったりと至福の時を過ごしていた。柿の木は滑りやすく、折れやすいのだが、そこは猿のようにスルスルッとてっぺん近くまで登って、横枝に腰をかけ、遠くの景色を眺めながら食する味は格別であった。その時の風の匂い、色づいた葉のゆれ音、秋の陽光があざやかに蘇る。よほど心地よかった一瞬なのだろう、今でも、ふと、蘇るのである。
それにしても、この秋の気象は我々には厳しい。未だに、亡くなった方や、ご苦労されておられる方々の様子に、心は痛むばかりである。年々考えられないような異常気象の状況に、さすがに恐怖を拭えない。
ふと、そうした災害の情報に、自分がかつて僅か6ヶ月ほどだったが奉職していた寺のことが気になった。その寺は、利根川添いにあり、弁才天をお祀りする寺であった。1,200年の歴史を持ち、菊のご紋の由緒ある寺であった。古墳の上に建てられていて、七堂伽藍が揃っている。本堂や楼門や鐘楼などは県の有形文化財であった。江戸時代には大名達がこぞって寄進奉納している。200を超える講社があって、当時は、対岸の成田山新勝寺がうらやむほどの盛況であったと聞く。
大正時代、大豪雨により利根川が決壊し、大災害に及んでしまった。その激流がこの弁才天の島にぶつかってきたのだが、誰もが驚くような不思議な奇瑞が顕れ、この寺と周辺地域は災害を免れたと聞く。それ以来、この寺は、更に大勢の人々に信仰されてきた。小職は、法縁により、35年前に、僅かな期間ではあったが、この寺に奉職した。事情で、今は、この寺とは無縁となっているが、この寺の弁才天女とのご法縁は、なぜか、今でも頂戴している。弁才天女ご自身が小衲のお側におられ、ずっと、ご加護をくださっておられるように感ずるのである。
幸い、今回は、このあたりのできたばかりのダムが空であったため、下流はギリギリのところで、堤防の決壊までは及ぶことはなかったらしい。
それにしても、年々ひどくなる自然災害をまのあたりにして、ついつい、「令和の時代に入り、我々はこの大問題をどのように受け止めねばならないのか」と独り自坊の本堂でご本尊を前に問いを発せざるを得なかった。
すると、そう、間違いなく、本尊のお声がして、卜を引くことになった。そして、驚いたことに、紛れもなく、あの弁才天女を指し示されたのである。(小生、私見の混入を避けるため、秘法を卜することがある)
先ず、卜するに、次のようなことが示された。
●「私たちは試練の度に、障害や失敗を避ける力をたくわえていく。同時に人は人生の中でストレスを生じる行為をいかに避けるかを学ぶ。もし、歩む道に障害が立ちはだかろうとも、それは、新たな道へ導くものであること知らなければならない。どうすることもできない状況にあるのだが、失望せず、耐えながら、現実の中で、できることを決断し、行動しつつ、必ずや見いだせるであろう新たな道に備えること。身の回りを整理し、やるべき事をきちんと済ませ、心を澄ませ、天の意志を待つこと。」
●「心に覚悟が定まれば、自分を覆っていたどうしようもない暗闇は除かれ、自ずから動き出す。自身に光を取り戻すことによって、これまでのものは失おうとも、また新たな創造のいとなみとなる。倦まず、弛まず、真剣に取り組むことで、確固たる信念が湧いてきて、自身に光を見いだすことに気づくだろう。」
●「ひとりひとりの力は限られている。頼らざるを得ないこともある。しかし、いかに小さなイノチであろうとも、個々のいのちには、宇宙の調和と慈愛に満ちたエネルギーが刻々に注ぎ込まれている。そのかぎりないイノチの只中にあることを決して見失わないように。」
●「宇宙の調和と慈愛に満ちたエネルギーこそが、一見、無力でか弱きあなたや私たち個々のいのちではあっても内側からこんこんと湧き出るイノチの本質であり、完全性である。あなた方は外界の混沌や激流に晒されてようとも決して毀つことのできない本初不生のいのちそのものである。」
更に、卜によって、次のガーヤトリ(古代インドのリグ・ベーダにある太陽神やサラスヴァーティの賛頌)が示された。
●「ガーヤトリを指し示そう!祈りなさい!祈りなさい!」
「ॐ भूर्भुवः॒ स्वः । oṃ bhur bhuvaḥ svaḥ
तत्स॑वि॒तुर्वरेण्यं॒ । tat savitur vareṇyaṃ
भर्गो॑ दे॒वस्य॑ धीमहि । bhargo devasya dhimahi
धियो॒ यो नः॑ प्रचो॒दया॑त्् ॥ dhiyo yo naḥ pracodayat」
「すべての力の源なるものよ、
その光、あまねく世界を照らせり、
わが心をも照らせり、
わが心もその光となさしむるがため。」
Saraswati Gayatri
「ॐ Om
हंस हंसाय विद्महे परमहंसाय धीमहि I
hamsa hamsaya vidmahe parama - hamsaya dhimahi |
तन्नो हंस: प्रचोदयात्॥ tanno hamsa pracodayat ।।」
「私たちの本源なる叡智の女神に気づくように。
私たちが至高の自己である本不生を瞑想することができるように。
叡智の女神が私たちを啓発し、転識得智することで知性が叡智となり、悟りを開くことができるように。」
おお!まさに、この天変地異に際し、本尊に卜したところ、奇しくもサラスヴァーティ(弁才天女)の二つのガーヤトリが与えられた。
そこで、すかさず問いを発した。「サラスヴァーティ:弁才天女とはいかなるものぞ!」
本尊の示されるには「惑星地球そのものが弁才天女である。森林大地河川湖沼の生み出す源が太母神弁才天女の大慈愛である。汝らの傲慢なる我欲の過ちが、惑星地球を破壊している。それを憂え、太母神弁才天女は母として汝らに厳しく試練を与えられるのだ。汝らを正しい方向に導かんがために・・・・決して、この苦しみと悲嘆と犠牲を無にしてはならない。人々よ。目覚めよ!目覚めよ!天人地の苦しみを解放せよ!調和と安らぎに変えよ!」ということであった。
合掌
萬歳楽山人 龍雲好久