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作成日:2020/07/10
心の通信R2年7月1日《あなたの手のひらに無限を ひとときのうちに永劫を》

 先日、枕経の供養をしているときであった。突然、不思議な想いを感じた。心の眼が開き、今まさに旅立んとする方が、小高い山の森の奥の古びた石の階段を登っている。果てしなく続く石段を、ゆっくり、ゆっくり、一歩、また一歩と、独り、その方は登っている。

 途中まで登ると、踊り場にでた。更にその奥の方にまだ石段が続いているようであったが、その方は、そこで立ち止まる。よく見てみると、そこには山を一巡する石畳の回廊が敷かれているのであった。その方は、その廻廊を右回りに巡るべく、再び歩み出した。不思議なことだが、その方の歩みに合わせて、回廊の壁面に、その方の一生が映し 出されていた。まるで、廻廊を巡りながら、自分自身の一生をふり返えるようにして、その方は歩んでいる。

 初め、その方の誕生する以前の様子が映し出されていたようである。というのも、小生がそれに気づいたのは、少し歩きだしてしばらくしてから、その方の誕生の様子が映し出されたからだ。まさしく、一生が映し出されていた。この回廊を一巡してみてわかったのだが、この回廊の壁面は、この方の前世と今生と来世の一生を映し出すものらしい。

 前世の様子は、祝福され、希望に満ちて、光りあふれる者達に見送られ、この世の修行に赴かんとする様子であった。しかし、この世に誕生した歓びもつかの間、周囲は空襲・破壊の戦火のさなか、まるで阿鼻叫喚のような地獄の様相であった。しかし、不思議なことにその幼いいのちに光が当たり、そのいのちを必死に守ろうとする祖母や母や身近な人々の身を粉にしても守りぬく姿がくっきりと映し出されていた。それから、その方の歩みにおける学び舎、職場、結婚、出産等、その方の様々な出会いと想い出の一生がありのままに映し出されていた。(ああ、これは、人生をふり返る「内観」のときであるのだなあ)と思った。しかし、その方の一生は余人がのぞき見れるものではなく、厳粛なものであった。

 やがて、廻廊が伽藍を一巡したところで、更に上へと続く石段を登り始めた。門のようなものをくぐると、また、踊り場に出て、そこで、また回廊が巡らされている。その方は、やはり右回りに回廊を巡り、同じように、回廊の壁面にその方の様々な一生が映し出されているようであった。

 私は、ふと、ここは一体どこなのだろうと、全体を遠望して見たいと思った。すると、どうやら、山全体が大伽藍であり、見えざる三角四面体のエネルギーの正反重合しているなかで投影されている世界のようであった。この中で、この方もこの山にある伽藍も包含されているのであった。(そういえば、昔から、なくなった方の額に三角の白い布をつけるが、これは、この世とあの世を繋ぐ二つの正反の三角四面体の三角のエネルギーの一つが消えて、次元を超えたあの世の三角四面体のエネルギーのみで移動することを示すために、亡者の額に三角の兜巾をつけさせているのではないだろうか。)

 それにしてもこの山はどこの山なのだろうと思っていると、(ここは萬歳楽山の霊妙なる伽藍である)というヒビキを感受した。

 そういえば、このビジョンに近いものは、以前にも、萬歳楽山頂でしばしば体験していたものと似ていた。

 確かに、その場で展開しているエネルギーは、あの、自転公転する聖三角四面体の正反重合するエネルギーであり、そのエネルギーによってこの伽藍はヒエラルキー的に曼荼羅界が投影されているようであった。幾層にも張り巡らされた廻廊は、いわゆる次元上昇下降の渦状の順逆の巡り性であった。

 そのようなことを思いながら、この亡くなられた方の後を追っていると、ある層の廻廊の壁面の前で、その方がピタリ歩みを止めた。そして、その方が壁面を向いた途端、スーッとその中に消えてしまった。一瞬にして消えてしまった。後ろから窺っていたのであるが、一瞬垣間見れたものは、吸い込まれた世界の向こうにある、この世と同様の天地自然界であった。しかし、これ以上追うことは遠慮しなければならなかった。というのも、どうしたことか、この方が大切にしていたというある種の霊性の響きを残していかれたからである。

 それはこのようなものであった。

 「一粒の砂に世界を見 一輪の野の花に天国を見る。 あなたの手のひらに無限を ひとときのうちに永劫をとらえる。」(ウィリアム・ブレイクの詩の一節)

 更に、次のヒビキをも残された。

 「一刹那が永遠につらなり、最も小さいものの中にも大宇宙が宿っている。」(華厳経の一節)

 このヒビキを感受したため、私は、急遽『般若理趣経』の次の一節を供養させていただいた。

 「さとりのまなこ ひらくとき 一つ一つに あめつちの すべてをふくむ金剛の み仏のかず かぎりなし。」

「 さとりのまなこ ひらくとき 一つ一つに あめつちの すべてをふくむ み宝の ほとけのかずは 辺際もなし。」

 「法のほとけの いずれにも すべてを具して 一つなる 性をさとれる 般若こそ すべてを具して 一つなり。」

 「事業のほとけの いずれにも すべてを具して 究まれる 性をさとれる 般若こそ すべてを具して 究まれり。」

 おそらく、この方はこのとき、後生の世界に赴かれたに違いない。

 果たして、その方が、そこで、この世に送り出して下さったあの懐かしい霊人がたと再会できたかどうかはわからない。

 しかし、このような不思議なヒビキを残されたのであるから、如来や菩薩のまします極楽浄土に赴かれたに疑いない。

 それにしても、その世界は、本人のみに許された、仏の慈悲に充たされた世界であり、明るい世界であり、余人の介入を許さぬ峻厳なる世界でもあった。

 ところで、気がつくと、枕経は僅か20分ほどである。その中で、これらのビジョンを感じたのは、ほんの一瞬であった。しかし、記述しようとするとこのように長くなる。無理もない、一瞬とはいえ、人の前世・今世・来世に渉る一生を辿るのであるから。

 さて、この話には、なお余談がある。

 実は、不思議なビジョンを見たあとまんじりともせず、自宅に戻ったが、ふと、気になり、『理趣経の研究』という書物に目を通していた。

 すると、驚いたことに、何と、そこに、先ほどの見た光景とあまりにも似ている山の様子が立体曼荼羅として掲載されていたのである。これは何かと調べて見ると、八世紀から九世紀頃に建立されたジャワのボロブドールの遺跡(世界文化遺産)であった。

 これまで、私は、ボロブドールのことは全く意識していなかったのだが、今回のこともあって、この『理趣経の研究』をよく読んでみると、小生が萬歳楽山から得ていた様々な不可思議なビジョンのすべてがこのボロブドールの立体曼荼羅において表現されていることに気づかされた。

 即ち、萬歳楽山におけるこれまでの「不生禅」と「般若理趣経」の真實義であるが、まさしく、ボロブドールの遺跡が表現しようとしていた、以下の真實義であった。

 一、宇宙の根源にして、個々の生命の基本たるは、無始無終の普門本體の普賢金剛薩埵である。

 二、第六會の金剛頂經たる廣本の般若理趣經などでは、これを最上根本佛と云ひ、文殊説名義經などでは本初佛(Adi-buddha)と称する。

 三、この本初佛(Adi-buddha)たる普賢金剛薩埵の性海より、大日、阿閦、寶生、彌陀、不空成就の五佛を始め、種々様々の色身を示現し、種々様々の説法をなし、種々様々の意慧を啓示する妙用である。

 このことから、萬歳楽山がこの現象界の地球上出現している潜象界の阿字本不生(Adi-buddha)曼荼羅であり、須弥山と互換重合する相似象の霊峰であることに、あらためて気づいた。

 まさに、萬歳楽山は「理趣経の根本義によりて出現している普賢金剛薩埵の立体曼荼羅そのものである」のである。

 ボロブドールの遺跡は一千二百年ほど前に石で築かれた理趣経の根本義によりて出現している普賢金剛薩埵の立体曼荼羅である。その下部が方形の6段から、上部は円形の3段からなっており、中心塔までいれると全部で10段となる。地下に埋もれていた基壇と下部の階段の回廊には仏典の浮き彫りがほどこされている。1460面の浮き彫りや504体からなる仏像はインドのグプタ朝の流れを汲んでいるとされる。下段の『分別善悪応報経』から第一段、二段、三段、四段の『華厳経入法界品』および『普賢行願讃』で終わっているという。なんと石段の回廊の石の壁面、石の欄干には、人間界の有り様、お釈迦様の前世物語、お釈迦様の誕生から出家、悟り、涅槃にいたる伝記、更に、お釈迦様の悟りの世界である華厳経、更に、真言密教の金剛界・胎蔵界の互換重合せる世界が刻まれているのであった。

 もちろん、ボロブドールのものは貴重な世界遺産とはいえ、三次元世界に築かれた曼荼羅であり、一種のレプリカである。

 今回、枕経で垣間見たものはといえば、小生の幻想に過ぎない。更に、萬歳楽山はといえば、そこに山があるだけで、このような仏塔が建立されているわけではない。

 しかし、見えざる世界においてわれわれはすべて繋がっており、個々の所行はすべてこの見地において統合昇華されていくものであることに気づかざるを得なかった。

 新型コロナウイルス感染症の問題で重要な局面にあるにもかかわらず、一部の愚童の如き権力者たちの政治に翻弄されている。人類の危機という厳しい状況にありながら、われわれは、全く新しい見地を奈辺に見いだせばよいのだろうか。

 「一刹那が永遠につらなり、最も小さいものの中にも大宇宙が宿っている。」

 「一粒の砂に世界を見 一輪の野の花に天国を見る。 あなたの手のひらに無限を ひとときのうちに永劫をとらえる。」

 この真理のヒビキを明確に自覚した全く新しい世界を建立せねばならないことを、見えざる世界は促しているのではないだろうか。

                     合掌

                     萬歳楽山人 龍雲好久