新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、世界の景色は全く一変してしまった。正体不明の見えざるウイルスが知らず知らずのうちに蔓延し、いきなり、重篤な症状を発し、人々をして急激に死の淵に立たせてしまう。われわれはこの恐ろしさをまのあたりにしている。治療の最前線においてクラスターが発生すれば、医療崩壊が起こり、感染爆発を起し、いのちに関わる犠牲者の増大に歯止めがかからなくなる現実の恐ろしさを突きつけられている。「降りかかっている火の粉を必死に振り払おうとしているうちに、まわりの山が燃えだし、手がつけられなくなってしまった。」最前線に立つ医師たちの実感を耳にするほどに、この状況のすさまじさに身の毛がよだつ思いがする。
症状の出ているものから感染症は拡大するというこれまでの医療概念を覆し、無症状者からも感染が拡大し、しかも感染して二週間後頃に発症するという厄介な病気で、死への恐怖をともなう非情な緊張感を人類に強いている。
しかし、このような感染症の非常事態において頼らざるを得ないものは、新型コロナウィルス感染症に直面している医師や科学者たちの叡智である。この未知のウイルスの感染拡大の終息がいつなのか、人と人との蜜を避けつつ、人と人との交流や経済再生のアクセルを踏まなければ、コロナ感染は終息したが、人類は破綻してしまったなどというがあってはならず、科学のみならず行政や経済のエキスパートやリーダー達が苦悩しつつ試行錯誤の末、打ち出す施策と叡智を駆使し、われわれひとりひとりが一丸となって、この難局を乗りきるしかないのも事実である。
更に、重要なことは、われわれひとりびとりが、この問題を抱える当事者であり、個々人ではあるが、人類全体の等しい問題であることであろう。
この新型コロナウイルス感染症の前に、日本人もアメリカ人もロシア人も中国人も無い、ひとりの人間の苦しみと混乱と悲惨さは、世界中に生かされているすべての人の苦しみであり、悲嘆であり、混乱である。
そうでありながら、このような危機的パンデミックがひとたび起きると、人は自己保存を丸出しにして、閉鎖的分断を余儀なくされる。これも人類が抱えるひとりびとりの問題である。
更に厳しいことはこのような新型コロナウイルス感染症の問題に曝されているからといって、自然災害の問題や、様々な搾取、欺瞞、侵略などの問題が消えたわけではないことである。われわれは、日々、あらゆる挑戦に晒されている。
このようなことを思っているとふと、ブッダとの対話のなかの一節がうかんだ。
あるとき、ブッダの話に耳を傾けていた者がこう質問した。
「私にはどうしたらあなたの云う明晰な知見に立ってはじめられるか見当が付きません。というよりもあなたの知見は私には理解できません。すくなくとも、この現実社会においては無意味に思われるのです。われわれはどうしても、自分の知っているところにしか行けません。」
ブッダは応えられた。
「しかし、あなたは何を知っておられるのか。あなたが知っているのは、すでに終わったもの、完了したものである。あなたが知っているのは昨日だけであって、われわれが問題にしているのは、あなたが知らないものからはじめて、そこから生きたらどうか、ということである。あなたが「いかにして」と考えるとき、あなたは昨日のパターンを頼りにしている。しかし、あなたが、未知の問いに直面しているとき、あなたは未知の側から生きれば、すでに終わってしまった過去のパターンに引きずられることなく、未知の問いに直面できる。未知の問いはまさに今現実に起きている問いであり、その未知の問いに既存の経験で推し量ろうとするから、現実の問いが見えなくなるのではないだろうか。知らないことに躊躇せず、知らないものとともにいきてみたまえ」と。
「パンデミック激動の世界ウイルス襲来」という番組があった。現実の問題に立ち向かって奔走する方達の思いをまのあたりにするようであった。
現実の厳しさの前に、あらゆる手を尽くして奮闘したが、事態は悪化の一途。もう打つ手がなくなくなり、亡くなる患者を前にして、憔悴しきった医師が、医療の無策に激しい憤りを隠せない。重傷者の治療のベッドが足らず、病院に搬送できず、施設内で亡くなっていく高齢者を看とり、涙を流す介護士の眼にも、激しい憤りがあった。
毎朝、お唱えする般若理趣経の経典の扉に愛染明王のお姿がある。
愛染明王は大日如来または金剛薩埵の変化身で、円形の光背をつけ、三目六臂の忿怒相をとり、獅子冠をかぶり、金剛鈴、金剛弓、拳、五鈷杵、金剛箭、蓮華を手にし、蓮華座上に結跏趺坐して、身色は赤で表現される。相形は忿怒であるが内心は大愛至情の本性をもっていて、息災、敬愛、得福のための修法の本尊となる。(ブリタニカ国際大百科事典)
新型コロナウイルス感染症のパンデミックに直面し必死に闘っている方達になぜかこの愛染明王の大愛至情の本性を見る思いがし、有難く尊く思えてならない。
合掌
萬歳楽山人 龍雲好久