令和元年の8月頃から、本堂でわずかばかりの修法をし、黙想していると、まぶたの奥に、ある仏像がぼんやりとではあるが現れるようになり、それが頻繁に感じられるようになってきた。不思議に思い、これは何ものかと凝視すると、闇に浮かぶ金色の仏像であった。しかも、単体ではなく、その周囲を包み込むように光りに充ちている。その、仏像をもう少し明確に見たいと注視しつづけると、その仏像は左手に蕾の蓮華を持ち、右手はその蕾の蓮華にそっと添えられているようであった。頭は髻に冠や瓔珞の飾りがあり、柔和なお顔は実に優しいものであった。以来、いつでも、どこでも、まぶたを閉じると、その聖観世音菩薩がまぶたの奥に現れ、不思議な思いがしていたが、住んでいるところが寺だけに、あまり気にもとめずにいた。ところが、その年の11月から12月末にかけて、ビジョンではなく、実際に、三体の観世音菩薩の仏像が篤信者により寄進されることになったのである。一体は名古屋の仏師が新たに刻んだ聖観世音菩薩坐像。一体は、この年、丁度、ローマ教皇が来日された日に奉納された隠れキリシタンのマリア観音。一体は古仏の聖観世音菩薩坐像。どなたかにお願いして集めたということでは全く無く、たまたま、ふいに、別々に、ご縁を頂戴して奉納されてきたのである。小生にしてみれば、観世音菩薩ご自身がやって来られたようなものであった。これら三体の観世音菩薩はそれぞれ所縁のお堂に一体ずつお祀りさせていただいている。観世音菩薩は世界を観じて抜苦与楽するに自在なる正法明如来である。
実は、仏像や聖像がこのようにして具体化して出現するということは、ここ数年、この寺で度々起きている。ただ、気がかりなことは、そういうことが起きる前後には、決まって人類が困難な課題に直面してきていることであった。大震災、豪雨、病疫など、未曾有の危機に直面している。結果的に後になってそう思うことなので、はたして、本当に、因果があるかどうかはわからないが、令和元年の師走には、聖観世音菩薩がお出ましになられたことを歓ぶというより、一種の緊張感を抱えながら、この年末、不動明王元旦護摩の準備をしていた。忘れもしない、この年の12月27日、手元に一冊の『真言密教常用諸作法集』のなかの『聖観世音息災護摩供次第』という祈祷書が、偶然、届いた。いささか、専門的になり恐縮だが、この作法次第の中に「道場観」というものがあって、その中に、小生がビジョンで正しく見なければならなかった聖観音のお姿が描かれていた。
次のようなものである。「(中略)・・・蓮華変じて聖観世音菩薩となる。身色黄金にして光明赫奕たり。軽穀衣を被、赤色の裙を着す。左の手は臍に当て、未敷蓮華を執る。右の手は胸に当てて、開敷の勢を作す。頭冠瓔珞あり。首に無量寿佛を戴き、及び蓮華部の聖衆前後に囲繞せり。云々・・・」これは、真言密教の観想の一つであるのだが、実際に木彫の仏像で、この通りに彩色されている仏像はお目にかかったことはなかった。ところが、気づいてみると、この次第が届く数日前に奉納された古仏の聖観世音菩薩は、全く、この密教次第に描かれている通りであった。仏像と次第は全く関係ない別々のもので、意図されたものでもない。偶然とはいえ、これには全く仰天せざるを得なかった。まるで、「お前は、この聖観世音菩薩を、この護摩次第によって祈祷せよ」と言わんばかりであった。
以来、令和二年の元旦護摩から、一年を通して、この聖観世音菩薩の供養法を中心にして祈祷修法を続けてきた。
しかし、ご存じの通り、令和二年は人類の営みが根底から覆されるという未曾有の困難に直面した。全く世界の景色が一変してしまった。この新型コロナ感染症の問題は、令和三年の新年を迎えても、なお、その脅威の深刻さは増幅している。果たして、ワクチンや治療薬が効をそうし、見えざる感染症を抑え、経済の営みを快復できるか。みな息を凝らして見まもっている。いや、それとも、全く打つ手無しの深刻な状況に陥ってしまい、ついに、人類は破綻せざるを得なくなるのか。ひどい時代の毒ガスや細菌兵器や放射性有害危険物質の拡散といような戦争状態とも様相が異なるとはいえ、世界の感染者数や重傷者数、無念にも他界された方々の数からすれば、それらに匹敵する脅威がある。しかもこれで終わるという見通しがまだ立たないでいる。
果たして、このような見えざる敵に対して、見えざる佛菩薩が、われわれの祈りを聞いて下さるというのだろうかとあざ笑う者もあるかも知れない。同じ見えざると言っても、ウイルスは小さすぎて人間の目には見えないが、現実に存在しているものである。これが知らず知らずのうちに蔓延し、しかも、変異を繰り返し、全く手のつけられないウイルスに変わるかもしれないのだ。同じ見えざるものとはいえ、佛菩薩はこのようには実在しない。所詮、人間の心の投影物に過ぎないものだろう。このような実在しないものにいくら祈ってみたところで、(重曹を風邪薬だと思って飲んだら風邪が治った)類いのもので、新型コロナウイルスにはそんな気休めは通用しないなどと・・・・。
確かに、一見すると、新型コロナウイルスに感染しないという聖域は無い。逆に、人が集まる聖なる場所や偉大なカリスマ性を持った指導者に共感し依存しているところほど、多数の信徒が集まり、興じることが、かえって密のリスクを高め、クラスター発症の場となりかねないのだ。
令和三年を迎えるに際し、小生の寺では、さほど参拝者があるわけではない。しかし、神事仏事で密になる行事は全て控えざるを得なかった。とはいえ、寺に住持する者としては、逆に、諸行事における人々に翻弄されない分だけ、じっくりと、独り、祈りの修法に専念することができた。
「祈り」が絵空事であるとは、全く、思っていない。というのも、少なくとも、この現象界は存在の実相の半分、いや、10分の1、いや、この大宇宙が、見えざるダークエネルギーの70%、見えざるダークマター25%、そして、ようやく把握できる現象宇宙はわずか4%に満たない。まして、人間の目に映るものはもっと少ないなかで、これら、見えている現象宇宙と見えざる潜象宇宙は一つとなってまわっていると確信している。その、見える世界と見えざる世界を繋いでいるものが脳レベルの心ではなく光子レベルの微粒子のココロにあると見ている。この大宇宙に遍満するココロの微粒子ゆえに、われわれの真剣な祈りは、微粒子のココロの波動となって、潜象に供応する。けっして脳レベルに限定された幻想や幻影・妄想の類いではないものであると見ている。このココロは万生万物にそれぞれ核(蓮華心)として存在し、必ず、見えざる宇宙と呼応している。ゆえに、人間に関わらず、地球上の万生万物の存在の苦悩はこの微粒子状のココロの叫びとして発生し、現象と潜象は互いに呼応しながら、統合の進化の方向に進む。ゆえに、いま、困難に直面するわれわれの苦悩の叫びが、祈りが、ココロが、大宇宙や潜象宇宙に通じないわけがない。
もちろん、この祈りが、「私には神様がついているんだから、マスクなどしなくたって感染しないし、感染させない。」などいう妄想の類いを意味するのではない。個々の生命も大宇宙も、現象界も潜象界も統合された一つであって、これらは全て平等に呼応(互換重合)している。故に、自然のコトワリや法則は見えている世界にも見えざる世界にも厳然として働き一貫している。このような観点で、しっかり、新型コロナウイルス感染に直面している問題を把握して、地球生命体の一部としての人類のエネルギー問題や経済活動をわれわれが今後どのようにして、宇宙の意志に全体的に統合化できるかを考えなくてはならないのだろう。
ところで、令和三年を迎えるに際し、この寺で、また、何か不可思議なる現象は起きたのであろうか。
実は、不思議なほど、全く、何も、起きていない・・・。只、静かに祈りに専念させて戴くばかりであった。これは、きっと、令和三年は、人類がようやく光明を見いだせる年になるということなのであろうか。
聖観世音が手に持つ蓮の花は、あらゆる生きとし生けるもののいのちの元であるココロであり、それが、ほとけの三身(ダークエネルギー体・ダークマター体・現象体)として繋がり、互換重合し、そのココロを通して慈悲擁護し、人類を含め万生万物が一丸となって、必ずこの難局を乗り越えられるよう、刻々に、チカラを注がれておられる。この聖観世音菩薩は、今もなお、歴然として稼働されておられる。
「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼らんに、観音の妙なるち智力は、良く世間の苦を救わん。」(生きとし生けるものたちに、いろいろな困難や災いを被って、はかりしれないほどの苦悩が身にせまってきたとしても、観音さまの素晴らしい智慧のチカラが、世の人々の苦しみや悩みをことごとく救って下さる。)
この観音の妙智力によりみなさまの幸い多き一年となりますようご祈念申し上げたい。
合掌
萬歳楽山人 龍雲好久