度重なる地震の影響で傾きかけている本堂で修法(瞑想)をしている。
少しの風でも、あちこちの柱がきしみ、がらんとした堂内のあちこちに響く。地震前と明らかに異なり、きしみ音が大きくなってきた。
寺が建立されておおよそ四百年弱。このきしむ音を耳にすると、今なお、大地にしっかり立とうとしている木造の柔軟さ、傾きから少しでも戻ろうとする意志があるように感じて、その必至さに、心が打たれる。
或る日、この世界が混乱しているいま、人の守護霊があるというならば、何をお思い、どう過ごしておられるのだろうかという素朴な疑問が生じてきて、ふと、古代の哲学者プロティノスが「神のはからい」や「われわれを割り当てられた守護霊について」のくだりを思い出していた。というのも、小生は、学生の頃、霊性を模索していたときに、ひとは見えざる世界から魂の兄弟である守護霊の導きを得ており、対話することも可能であるという現象に何度となく遭遇したことがあったからだ。その不可思議なる現象とプロティノスの思索に問われる守護霊とは同一のものであるのかという問いであった。というのも、多くの人々が、この現象界における孤立化を余儀なくされている最中、守護霊が、どのように、困難に直面する各人を守護し導こうとされているのか。その守護の導きを各人が如実のものとして受け取るには、何が大事か、という問いが、私自身のことととして浮上していたからである。
プロティノス思索する、
では、だれが(あの世界でわれわれを導く)守護霊(ダイモーン)となるのであろうか。
この世で、守護霊であった者が、守護霊となる。(中略)
人々の守護霊は、その人のこの世の生き方を支配している原理(理性的、感覚的、もしくは植物的原理)より上位のもので、活動せずして統治(全的無行為による統治)し、活動するものに承認を与え、導くものである。(中略)
つまり、魂というものは多でありすべてであって、上位のものであるとともに下位のものでもあり、生命の全体に及んでいるものである。(略)
では、こうした、守護霊との対話は如何にして起こりうるか。学生時代の経験を思い出しながら、ふと、問いを発し、修法(瞑想)に臨んだ。
すると、この問いとは無関係に、次のような念い(心の響き)に導かれた。
修法(瞑想)は、その経験を継続したり拡張したりすることではない。
なぜなら、経験を基に、それを継続し拡張しようとすること自体、自我であり、目撃者であり、経験という過去に縛られていることである。これは、修法(瞑想)とは全く異なる行為である。
修法(瞑想)は、あらゆる経験の主体となっている自我の活動を終わらせることに他ならない。全的無行為、すなわち、自我の活動が終わることで、はじめて、精神、心は無碍自在の本来のものとなる。
経験に基づく自我の行為は、それが過去に根ざし、時間に縛られているが故に錯誤と混乱をもたらす。生の現実は刻々であり、過去は終わり、新たなる今の現実をまのあたりにしながら、過去に根ざしてみること自体、心のざわつきにすぎず、こうした自我による経験に依存する行為こそが生の現実に対する錯誤と混乱を生み出す原因である。
修法(瞑想)とは、過去に惑わされることなく、あるがままの現実を直視することである。
生の現実である外部からの問いかけは、今の事実であり、これに対する自我の反応を終わらせることで、生の現実や働きかけそのものと一体となり、そこでは、自我と現実の乖離した二元性は消え去る。
ゆえに、修法(瞑想)は経験の堆積から絶えず無意識的、意識的浄化を行うことであり、一日のある時間を限って行われるものではない。それは、朝から夜まで、見るものによらず、しかも、絶えず、ひたすら、見ることそのものにある。
それゆえ、ひたすら見る行為においては、日々の生活と修法(瞑想)、宗教的生活と俗世の生活との間における区別はない。そのような聖と俗の区別は見るものが時間に縛られているときにだけ生じる。そしてそのような区別の中にこそ、混乱や不幸は生じているのである。これが、われわれの実情であることを理解しなければならない。
いま、修している瞑想は、自我主体の個人的なものでも、自我集団の社会的なものでもなく、いずれをも超越しており、それゆえ、そのいずれをも含むものである。
それこそは愛であり叡智であり慈悲であり、不生の仏心である。この、慈愛の仏心の開花こそ、修法(瞑想)に他ならないし、あらゆる困難と苦悩を終わらせ、創造的生をもたらすものである。
この、響きを聞いた後、修法(瞑想)のさなか、すかさず、次の問いを発した。
見えざる世界における守護霊や諸天善神、天使や大天使、神、菩薩や如来等に対し、祈念を凝らすことは、苦悩に直面しているわれわれの自我の主体が経験的に修学的に生み出す幻影に過ぎざるものか。
すると、
守護霊は、厳然と、存在している。それは、自我の働きや行為とは無縁でありながら、なお、生命全体の全的無行為を通じて、日々の生活と修法(瞑想)、宗教的生活と俗世の生活との間に区別なく、汝をして、直接、導いている。
ゆえに、われわれは、自我の喧噪に翻弄されている自身をあるがままに観察し、自我の喧噪が止んだとき、そこに、自ずと、天真爛漫で無碍自在な慈悲と愛と叡智の働き手としての行為に導かれる。そこには、われわれと守護霊の乖離はなく、一つである。というのである。
度重なる地震の影響で、東側の柱が、くの字に折れ曲がり、本堂全体が東側に傾いてしまった。このままでは、ほんのちょっとした揺れでも倒壊を免れることはできなくなる。大急ぎで、くの字に折れ曲がった六本の柱を、レンチで少しずつ戻し、鉄骨で六本の柱を補強し、多少の地震にもしばらくは耐えられるよう工事を進めている。まず、最もひどく折れ曲がった柱二本を鉄骨で補強した。その鉄骨の支柱を二本を添えたところで、その、効果を試すかのように、突然、震度5弱の地震が、また、襲った。大丈夫であった。
少しの風でも激しくきしんでいた本堂の柱が全く動じなくなり、閑かである。いま、修法(瞑想)していて、これが何よりも有難いことであり、感謝に堪えない。
合掌
萬歳楽山人 龍雲好久