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作成日:2021/07/10
心の通信R3年7月8日《賢者の話》

昭和46年頃、小生は寺に随身しながら仏教系の大学に通っていたのであるが、寺の行事が忙しいと、授業に出ることもままならないこともあった。しかし、ようやく時間があいて、久しぶりに大学に登校し、『宗教教育』のゼミに出席できたときのことであった。そのゼミで配布されたガリ版刷りの資料は、小生が初めて目にするJ.クリシュナムルティに関する資料であった。授業の内容はたまさか宗教教育ではあったが、この人物のことは何も知らなかった。教室は少人数ではあったが教授と学生のやりとりは極めて閑かな中、真剣そのものであった。講義とは直接関係しないその資料を、読むとはなしに読んでいたのではあるが、その驚くべき内容に釘付けになった。

その文の書き出しは、早朝、大鷲が山頂から飛び出していって、悠然と谷間を渡り、都会を見下ろし、夕方に谷間に帰ってくるという極めて美しい文からはじまる限りない静寂性と高く揺るぎのない深い境地と一切の欺瞞性を打破する、溢れんばかりの革命性を帯びた内容であった。

それは、あらゆる宗教やイデオロギーに潜む欺瞞性を容赦なく断ずるものであった。宗教心や信仰心や霊性の存在にどっぷり浸かっていた小生にとっては、自身の全てを覆されるという由々しき事態に陥った。これは決して受け入れがたい。しかし、どこか、確かに核心を突いた明晰性は、かの釈尊に呼応し、ひどく惹かれるものがあった。

この資料で語られるJ.クリシュナムルティの話の内容は、ひとりびとりに、直接、問いかけられたものであった。それゆえ、自身の内部にある反発や抵抗も含め、自分自身に向き合わせる極めて鮮烈なものであった。

これまで取り組もうとしてきた宗教的なものの大半は、直接自身に問うというより、絶えず至らぬものから覚者への指向性があり、見ているものは絶えず神聖性・覚者・神・如来や佛菩薩を目指すものであった。しかるに、それが、何と、そのようなこと自体、如何に皮相なものであったかを知らされるようなものであった。嘘で固められた欺瞞の真実が一皮一皮むかれる思いであった。この自己欺瞞と偽善性にメスを入れるのは、かなり苦しい。すぐに、聖なるものへと逃げようとする自分がある。しかし、実はここが大事なのだが、自分や他者からの自己に対する批難や攻撃ではなく、自己の内実をあるがままに自己凝視することの大切さであった。外面はごまかせても、その自己の内実をごまかすことはできなくなる。苦しいがゆえ、葛藤がある故、至らぬ者なるが故、それゆえ、聖なるものの、真実なるものの絶対性を拠り所にしようともがいてきたが、それらが全て否定され、培ってきた宗教的価値観を全て崩される。これは、まことに苦しいものである。が、しかし、自己を見つめれば見つめるほど、これまで得られたこともないような、その悪夢から覚めて、正気に返るような不思議な感覚があった。

現実と妄想の中で生じる欺瞞の構造がはっきりと見えたとき、その呪縛から解き放たれる。「ひとはだれでも自身の光りとなる。」実に目の覚めるような革新的な内容であった。

さて、この賢者の話に触れておきたい。それは、小生が托鉢に出たり、萬歳楽山登嶺禅定瞑想の核となるものである。

 

もしもあなたが、菓子屋やカメラ店、花屋、食堂、時計店、魚屋など、たくさんの店が並んだ小さな町の街路を通り抜け、橋の下を過ぎ、隣町の下駄屋のわきを通って、また、別の橋を渡り、スーパーのわきを通り過ぎ、田畑や果樹園が広がり、通り過ぎる列車や車の往来の中を過ぎて、森へ入り、水の流れに沿いつつ歩くとき、どうだろう、自分の目と感覚をすべて完全に覚ましつつ、しかも精神に一閃たりとも思考をはさむことなく、通り過ぎてきたそれらすべてのものを見つめるならば、分離のないあり方とはどういうものか、きっとおわかりになるであろう。

その流れに沿って数キロほど歩きながら、しかも再び微塵も思考を働かせることなく、清流のせせらぎ、風に揺れわたる森の木々や草々の葉ずれ音を聞き、その輝きを見、更に奥の山の頂から下ってくる清流の流れを見る。一歩一歩さらに一歩と、一切の思考、一切の言葉を交えずに、木々を見つめ、枝の奥に垣間見る空の青、そして緑なす葉群に目をとめるとき、あなたは自ずと、人と草の葉との間に空隙がないということがどういうことかを理解するであろう。

もしもあなたが、またもや思考を何ひとつ働かせず、明るい紅色から黄色や紫まで想像しうるあらゆる色の花々が咲き乱れ、夜来の雨できれいに洗われた草が青々と豊かに生えている草原を通り抜けるならば、そのときあなたは愛とは何かがおわかりになるであろう。青い空、空高くいっばいに風をはらんだ雲、あるいは空にくっきり輪郭を見せている緑の丘のつらなり、鮮やかな草としぼみかかった野の花をごらんなさい。‥‥これらのものを「昨日の言葉」を何ひとつはさむことなく見つめるとき、精神は完全に静まり返り、思考によって何ら乱されることなく沈黙し、そして観察者が全くいないとき、そこには不生というユニティ(統合)がある。それは人が花や雲、あるいは広々とした丘のつらなりと文字通り合体するということではなく、むしろそこにあるのは自分と他者との区別のない全的な非在感であるがゆえの不生のひろがりである。

スーパーで買った日用品を乳母車で運ぶ老婆、その側で子犬と戯れ、ボール遊びをする子どもたち…もしもあなたがこれらのものを、全くの無言のうちに、一切の判断、一切の連想をはさむことなく見つめることができれば、そのときにはあなたと他者との間のいさかいに終止符が打たれるのである。

言葉や思考を介在させないこのような状態は、〈私〉と〈他者〉の区別が存在する領域や境界を持たない、精神の無窮の広がりである。それは断じて想像上のものでもないし、空想の翼に運ばれているのでもなく、あるいは待望されていた何か神秘的な体験といったものでもない。それは目の前の花にとまっている蜜蜂や自転車に乗って下校するの学生たち、あるいは壊れた家の壁にペンキを塗るために、バケツを片手にゆっくりゆっくりはしごを登っているあの年老いた人と同じくらい現実的なことなのであり、そのときには分離状態の精神がひき起こすあらゆる葛藤に終止符が打たれるのである。それは観察者としての目を交えずにものを見、言葉の価値づけや咋日の基準を交えずにものを見ることである。愛のまなざしは思考のまなざしとは違う。

一方は思考がついていけない慈悲に満ち、他方は分離と葛藤と悲嘆をもたらす。悲嘆の方からはついに愛が顕れるることはない。両者の間の隔たりは思考であり、思考はどうあがいても愛ではないのである。

小さな農家のわきを通り、草原を通り抜け、鉄道に沿って戻っていくと、昨日はもう終わったのだということには人は気づくであろう。新たなる生は思考が終わったところからはじまるのである。

 

萬歳楽山に登るとき、この賢者の話は、いつも新鮮である。

 

合掌

萬歳楽山人 龍雲好久