トップ
サービス案内
沿革
事務所案内
税務会計ニュース
今月のお仕事
相続コンテンツ一覧
リンク
お問い合わせ
プライバシーポリシー
ご紹介できる先生方
作成日:2021/09/10
心の通信R3年9月2日《見えざるものの苦しみと悲しみの声》

三次元のこの世にいのちをいただいているわれわれは三次元に局所化されて出現しているいのちであるがゆえにそのいのちを吹き込んでいるより高い次元にあるいのちは潜在化されて三次元の五官六根の感覚器官では見えなくなる。

見えるから存在し、見えないから存在していないとは必ずしもいえないとしみじみ感ずるお盆もあっという間に過ぎてしまった。

新型コロナウイルス感染症の問題もあり、寺の盆行事もリスクを避けるべく縮小はするものの、檀家さんがたは、お盆の供養を欠かすことはなかった。

寺では、精霊棚を飾り、施餓鬼過去帳と卒塔婆供養を併修する。次の施餓鬼過去帳の文を供える。

「そもそも 過去帳といっぱ、苦海を渡る津梁、楽岸に至るの船筏なり。弘法大師は帖に録して、亡魂を弔い、源仁僧都は名を列ねて幽霊を輔く。・・・我等今日彼の古風を仰いで、施餓鬼の規則を整へ、その旧流を汲んで、過去帳の記録をいたす。然れば則ち、芬々たる萩の花を捧げて、精霊に播こし、滴滴たる乳水を掬んで、亡魂に灑ぐ。方に今、名字を呼んで梵鐘を鳴らし、人数を拾って廻向をいたす。先ず、三国傳燈顕密の諸大師・・・七世の父母六親眷属・・・戦死戦災死者・並びに天災・人災・疫病・交通事故・飢餓飢饉の諸災害横死の幽魂。殊には 今日志すところの附施餓鬼塔婆供養の各霊。この外、有縁無縁の隔てなく弔うところの精霊、その数、繁多にして翰墨に遑まあらず。皆此の砌に来たって悉く當会に集まり、甘露の法味を嘗めて、餓鬼飢饉の苦しみを離れ、解脱の法薬を服して、密厳浄土の楽しみに誇らんのみ。乃至法界 平等抜済」

今年は、この施餓鬼会に臨むに際し、不思議な体験に曝されてしまった。この寺の大施餓鬼会には、小職、学生時代から奉仕してきて五十数年経つが、このような不思議な経験をしたのは三度目であった。

施餓鬼会の前日、仕度を済ませて、夜、早めに休んでいたところ、一時間おきに、奇怪な音や声や振動で目を覚まし、とうとう、明け方4時までそれは続いた。うとうととして突然の物音、地獄の底から響くような声にハッと眼が醒めるが、ほかのものたちは全く何事もなかったように熟睡している。果て?今のは何であったのだろうか?横になりながら、かなり緊張している状態に陥っていた。この世のものでないなら、私の意識で目撃できるようお導き下さいと祈りつつ、じっとしていた。しかし、いつの間にか寝てしまうが、やはり、また奇怪な響きで、ぱっと目が覚めてしまう。

たまにではあるが、このような経験をする場合、その後、必ず、亡くなった方のお知らせがはいる。しかし、今日は、施餓鬼大法要があるから枕経には無理だなあと思いつつ、寝ていてもしょうがないと起きだした。気分は特に悪くはない。

幸い、この日は、特にそのようなお知らせは入らなかった。

さて、この寺ではコロナ禍のため新盆の精霊を抱えた檀家さんのみの参拝に限定し、寺の役員、近隣の寺院方十数名で法要が行われた。しかし、これほど参詣者が少ない法要は去年に続いて二度目であった。かつてなかった。小生は裏方専門である。法要の間は、不測の事態に備えて本堂の片隅に控え待機する役である。九間四方の本堂の戸を開け放し、僧侶たちが今まさに入堂しようとするときだった。本堂裏の廊下の向こうの方(入堂する反対側)に、導師の法衣をつけようとしている独りの僧を見かけた。あれ?!この寺の住職が仕度に間に合わなくて、途中から入るのかな?と思った。まさに着ようとしていた法衣は夏の七条衲衣、薄い金銀の糸の刺繍が入り、涼しげだった。かなり古そうなお袈裟で、今の人たちはほとんど着けないものだった。珍しいなと思いつつ、私は離れているのでそのまま控えていた。僧達がご詠歌に促されてゾロゾロと本堂に入ってくる。ところが、お導師さんもちゃんと列に加わっている!えっ!さっきの僧は誰?物理的にあの場所から僧の列に加わることはできない。それで、もう一度、さきほどの廊下の隅に目をやるが、すでにそこには誰もいなかった。

法要が始まったので、本堂裏の南西の廊下の角の現場を確かめてみた。爽やかな緑の風に障子度が少し揺れているだけであった。なーんだ、眼の錯覚だったのかと思った瞬間、「私はこの寺の住職の祖父である」という。「精霊の世界ではこの施餓鬼供養は大事なものだ。だから、われわれもこうして供養をさせて頂いている。今、人心が厳しく困難な時代にあるから、あの世で支えようとしているのだ」という声がしたような気がした。廊下の自席に戻り、僧達の唱える理趣経を聞きながら、閑かに、黙想していた。暑い日であったが、北の窓から心地よい風がときおり堂内に入ってくる。すると、その窓の右下から一本の細い糸が堂内の左上の方にまっすぐに伸びてきた。風に揺られる一本の白い糸であった。はじめ、本堂は二階の高さにあるので、この本堂の北側には下に墓地が広がっていて、そこからお線香の煙が立ちのぼり入ってきたのかなと思ったが、風でも一糸乱れず立ちのぼっているので煙ではない。では、この糸は何であるのか。明らかに幻視ではなく実際のものであった。珍しいので閑かに凝視していた。窓の右下から伸びていて、廊下の壁の向こうの内陣の本尊の方へと登っている。風に揺れながら乱れることなく上の方へと伸びていた。かつて、施餓鬼会のとき本尊の額から金糸が垂れてきて、蟻のように無数にいる餓鬼精霊の方へと伸びていき、その黒い無数の精霊たちが、その光りのベルトにのせられて本尊の方へと吸収されていくのを幻視したことがあった。黒い虫のような格好した無数の小さな精霊は、その光りに包まれながら、次第に人の姿にかわる。そして、めいめいが慈愛に満ちた世界に帰って行くものを目撃したことがあった。これと同じかも知れないと思いつつ、しかし、その立ちのぼる糸は現実のものであった。

法要が全て済み、片付けるとき、その糸の側に行ってみたが、すでに戸は閉じられていて何も無かった。戸を開けたとき切れた蜘蛛の糸が風に揺られていたのであろう。

帰り際、そのことをこの寺の住職に話したところ、それは、間違いなく、私の前々代の住職であろう。というのも、その法衣はまだ法衣ダンスに間違いなく残っている。それに、光りの糸のようなものは、蜘蛛の糸ではないと思う。というのも、その本堂の北西の窓の下には祖父である住職のお墓があるのだからと言う。

この日、夜、帰宅。7月から続いたお盆の供養の行事もあらまし済んで、ゆっくり休もうと床につく。しかし、心の奥の方でどこかしら異常な緊張感がまだあって、寝付けない。このようなことはめったにないが、気にせず、横になっていた。が、奥の方の緊張感は物の怪がすると言うより、悲痛な叫びのようなものだった。(たすけてください、たすけてください、おねがいです、おきてください、どうか、たすけてください)というような声にならない声が聞こえてくるようであった。どなたか、小生を頼っている方がおられるのかも知れないなと思い、(申し訳ないです。私にはあなたのことがよく見えておりません。私にできることは、あなたに救いがありますようにと、如来さま方にお願いさせていただくだけです。阿弥陀如来根本陀羅尼を100辺お唱えします。どうか安らかにいてください。)と、横になりながら、阿弥陀如来根本陀羅尼をとなえ続けていた。

いつの間にやら、明け方の4時であった。

この日の9時頃、訃報が入った。お檀家さんではなかったが遠方の知人からであった。

亡くなった方は夫と子ども二人を持つ五十代の方であった。務めていた職場内で新型コロナウイルスのクラスターが発生し、感染したらしい。このかたは一回目のワクチン接種を終えたばかりであったが、感染して、数日後に調子が悪くなり緊急入院することになったという。夫も子どもも感染しており、自宅待機となった。突然のことだった。こうなる数日前に「家の子供が感染してしまった」と報告してまわる同僚がいたのだという。しばらくして、他の人たちの大半は症状が軽かったらしいが、不運なことにこの方は、日増しに悪化、そして、とうとう今朝方なくなられたとのことだった。

嗚呼、あの声はこうだった。

(たすけてください、たすけてください、まだしにたくありません。せめて、あのこたちともういちどはなしをさせてください。つたえねばならないことがたくさんあるのです。あのこたちともっといっしょにいきていたいのです。おねがいです。おねがいです。たすけてください。いまは、はなすことも、きいてもらうこともできないのです。たすけてください。それがだめなら、せめて、いちどだけでも、あのこたちとおはなしできるようにしてください。あのこたちになにもつたえずこのまましぬのはいやです。せめて、あのこたちに、あなたがたがわたしのこになってくれてよかった。おかあさんはあなたがたといっしょでしあわせでした。おかあさんはもうだめだす。けれど、あなたがたがそうならなくてほんとうによかった。どうか、げんきにたくましくいきてください。ああー、かみさま、おねがいです。もういちど、せめてもういちどだけ、あのこたちとおはなしさせてください。おねがいします。おねがいします・・・・)これをどのようにお伝えすべきだというのだろう。

三次元のこの世にいのちをいただいているわれわれは三次元に局所化されて出現しているいのちであるがゆえにそのいのちを吹き込んでいるより高い次元にあるいのちは潜在化されて三次元の五官六根の感覚器官では見えなくなる。

見えるから存在し、見えないから存在していないとは必ずしもいえない。

見えざるものの悲しみと苦しみの声を聞けなくなったわれわれに真の安らぎは決してもたらされないのではないか。そう思う辛いお盆となった。

合掌

萬歳楽山人 龍雲好久