夜、床につき、朝目覚める何気ない日常の中で、ふと、寺に住み込みながら仏教系の大学に通っていた昭和47年頃のことがよみがえる。このとき伝統宗教の形骸化の問題と霊性の真偽の問題に非常に苦悩していたときであった。
一日中仕事に追われ、明日への慮りに押しつぶされながら、ようやく、ひとりになり休む時間を得た。
小鳥の声で、目を覚ます。もう朝か。起きて仕事をしなければならない。わずか三時間ばかりの睡眠の日々が、数年は続いていた。
寝ている間の静寂なる自分と、目覚めた途端、昨日から連動した自分の日常が再び始動するこの記憶の感覚は、一体何なのだろう。それこそ、心身という肉体に電源を入れ、エンジンをかけスタートさせるようなものだ。
では、朝、目覚めて起き出す我が心身は、この世に与えられた肉体という魂の一種の乗り物、しかもかなり現象界に条件付けられた「乗り舟」なのだろうか。それとも、われわれはただ単にこの地球上で進化した人類という生物的機能に条件付けられただけの物質的存在に過ぎないのだろうか。それとも、それらを超えた見えざるものからもたらされているものなのだろうか。しかし、見えざる世界を云々する既成教団も新興宗教もそれを信じている誰もが自己欺瞞に陥っているようにしか感じられない。彼らは本当のところは全く見えていないのではないか。無論、至らぬのは自分であるのだが、では、どう探求すべきなのであろうか。真の宗教はどう解くのか。釈迦牟尼仏は何を示されたのか。世俗を超えた真理というものが本当にあるのか。寝ている間は全く静かな自分が眠りから覚めて相変わらず悩む自分とは一体何なのか。
パソコンはハードとソフトで起動しているが、それにいのちを吹き込むのは電気である。この電気というのは機械でもなければプログラミングソフトでもなく、またそれを開発製作する人間でもなく、いわば宇宙に遍満するエネルギーからもたらされているものである。このエネルギーは直接は見えざるものだが、電気として、機械やソフトの全体性にいのちを与えるものである。電気が切れればパソコンなどの機械はただの筐体にすぎず、死んだも同然である。
複雑な生物のシステムとはいえ、同様に生命を動かす見えざる生命エネルギーが働いているように感じられてならない。
では、その生命エネルギーとは何か。どこからもたらされるものであるのか。曖昧模糊として悩んでいると、次のことが繰り返しはっきりと浮かんでくる。
[私たちは、多にして一つの宇宙に住んでいる。]
[この宇宙の中心である創造する心(マインド)は、「主」、「王」、そして「救世主」として知られている。]
[存続できる創造物というのは、その種が、「生きた宇宙」 の「高次の進化」にふさわしい「イメージと似姿」に向けて、 生命と光を集結させようとする創造物のことを言う。]
この啓示は、昭和45年に霊性の問題で邂逅した恩師が絶えず口にしていたことでもあるが、彼が他界して31年経った平成22年12月に偶然手にした書物にも同様のことが書かれていた。これまで虚妄の法と片付けていたこれらの見解ではあったが実はそうではないといわんばかりに繰り返し浮かんでくる。
このことで、小生自身は、ブッダ親説とこの神学的新宇宙論の統合化をはからざるをえない状態にある。
眠りと目覚めの何気ない問いから、個々のいのちである自己性とは何であるかを再び問わざるを得なくなったのである。
即ちこうである。
【個々のいのちは本不生なる神のいのちの現れであり、生命体は刻々に新たに創造されている本不生の顕現体であるといえるのではないか。】
ブッダが指摘された本不生から、遍在する先験なる光のエネルギーとして、ダークエネルギーやダークマターそして局所化する現象界へ、それこそブラックホールや星雲や銀河や太陽系の惑星の巡り性(自転公転)を以て、無数の広大無辺なる大宇宙体を刻々に創発している。それらは、われわれが目撃し、観測し、計測する様々な理論の解釈を遙かに超えた刻々の創造性であるが、それらが刻々に現象化する実相を直観できるのは、「個」と「全」がそもそも本不生において不二であるからである。むろん、局所化され、条件付けられているものが、それを包括する大宇宙を完全に掌握できるはずもないが、本不生において「全」であるということ自体がそれを支えている。「多にして一つの宇宙」とは「全」が「多世界」を現象化させる開かれた宇宙を示す。
故に、この地球上の生命体である万生万物は、そうした神なる光のエネルギーが刻々に現象化させているものといえる。
あらゆるダークエネルギーからダークマターを通して、現象宇宙へと局所化する生命体はそういった神なる本不生の遍在性から局所化の現象となって現出する神の気即ち光りの流出であろう。神気ともいえるこの光りのエネルギーは、それ自体は見えざるものなれども、生命体にいのちを吹き込んでいる本源、當のものである。生命体は神気を根としている。物質といえど、実は神気が局所化された現象であり、三次元のわれわれの五官六根で感受している物体ではなく、より精妙な見えざる光子などによる現象化である。
即ち、万生万物は神気が先験的に今に経過し、消失し、新生創出する宇宙である。ゆえに、万生万物・個々のいのちは神のいのちの現れであり、生命体は刻々に新しく創造される被造物であり、刻々ともたらされている神の現象である。
然れば、神のいのちの現れであるものが、なにゆえ、この地球上で搾取と欺瞞と暴力を繰り返し闘争殺戮しあうのか。それを真剣に問わねばならない。
局所化されたものは個でありながら、それ自体は全体である。より包括的なものの一部分にすぎなくとも、個として全である。ここでいう全というのは一なるものの多が一として全的に統合されているということである。すなわち極大宇宙も極微宇宙も局所化された現象世界において一個の統合体であるということである。
ゆえに、局所化された個が全体性を見失うとき、それらを含む全体性は直ちに崩壊し始める。部分なる個はそれ自身の全体性を失えども、より包括的な全体性はその部分を修復保全し、入れ替えすら行うものであろうが、本不生から逸脱した個の動きは致命的であり、包括する全体も崩れざるを得ないことになる。
こうした個々の生命は、おのおの個体として現出しているがゆえに、それを包含し、統合化する全体性は潜在化される。このとき現象世界に局所化される個が断片化した個の動き、すなわち自我が自己中心的に偏執し、全体性を見失った結果互いに対立や分裂を起こす。これが、搾取と欺瞞により互いに闘争殺戮しあう現象である。
この普遍性を見失い断片化した個が打ち立てるいかなる宗教やドグマなどは如何に絶対的善や愛、慈悲の法衣を纏っていようとも、かれらの本質は世俗における闘争的暴力性を孕むゆえに、腐敗と破滅をもたらす。これが人類の歴史上繰り返してきた愚行であり、今も行われていることは世界を見れば一目瞭然の事実である。これこそが人類の根本煩悩であり根本課題であるのは、必ずそこには悲嘆と苦悩が伴うからである。しかし、もし、人類に悲嘆と苦悩を感じる心が無ければ、それこそ、その無自覚のまま暴走し、無慈悲で冷酷無比な虚妄の言動に気づかず自他を滅ぼさざるを得ないことだろう。
それゆえに、局所性は本来、全体からの遊離ではなく、全体の構成に基づく個の出現と働きであり、全体の確立には個の確立が不可分であることを理解しなければならない。
逆に言えば、他を殺戮することは、自らを殺すことにほかならないのだ。
すべてのいのちは本不生の顕現体である。その顕現体はいかなるものも個々の生命体として顕現している。世諦はこの顕現体世界を指す。真諦は本不生を指す。世俗諦において一つであり多である宇宙は、真諦におけるブッダが指し示された「滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。一たるものでなく、区別のあるものでない。来るのでなく、去るのでない」と、戯論の寂滅した吉祥な先験性すなわち本不生から「縁起生」し、現出しているのである。
これはダークエネルギーやダークマターそして現象宇宙が無限に多世界を並行的に創出していようとも、これは世俗諦の真理であり、その真理の背後に、それらの現象に条件付けられていない天衣無縫な先験性である本初不生が輝いており、われわれ自身はそこからもたらされているという真諦を示している。
つまり、この現象宇宙にあって、われわれはどのような局面にあっても、あるがままの人生を通じて、本不生から刻々と開かれた宇宙の神気によってもたらされているかけがえのないいのちを生きており、それは、いかなる暴力や欺瞞、更には災難などによっても破壊されない見えざる世界からのものであるということにほかならない。
朝、目覚めてはじまる一日は個々のかけがえのないいのちの活動する場であり、床につき寝ている間に、われわれは見えざる神気の世界に帰り、不浄を浄化し、本来の生命エネルギーを充填する。そして、朝目覚め、再び活動する。実は、このことが不断に刻々となされているのが本当のところであるようだ。このわたしは、全く新しいいのちを、今生かされているという大いなる慈悲と愛を感じれるだろうか。
この本質をわれわれひとびとりが覚醒してかけがえなき人生を送りたいものである。
合掌
萬歳楽山人 龍雲好久