だいぶ昔の話であるが、ある著名な仏典童話作家が三つの大学で仏典の「捨身餌虎」の物語をした。その物語はこうであった。「インドにいつも正しく国を治め人々を豊かに導く王がいた。その王に三人の王子があった。あるとき、三人は森に遊びに出て、ロープを垂らして崖を兄から順に降りようとしていた。しかし、崖の下には、今にも死にそうな、飢えた虎がいた。七匹の子を連れた母虎であった。兄二人はその虎を見て、あっ!まずい!危険だ。このまま降りたら噛み殺されるといって、途中からもどって、末の弟におまえも危ないから降りるなといって、そこから立ち去った。ところが、この末の王子は、飢えた虎をじっと見て、するするっと崖を降りて、飢えた虎の元に近づいた。虎は怖じけづいて何もしようとはしなかった。そこで王子は落ちていた棒の端くれで自分の腕を指し、その血の臭いを母虎に嗅がせた。虎の親子は直ちに王子に飛びかかって食べ尽くし、あとは、白骨があたりに散らばるのみであった。」
彼は、この話を、一般の大学とカトリックの大学と仏教の大学で紹介し、そして学生たちに「君たちはこの末の王子の行動をどう思うかね。」と尋ねた。
すると、一般の学生は「兄二人の行動が普通だ。わざわざ、自分から進んで虎の餌食になるなんて狂気の沙汰にしか思えない。たとえ餌になったって一時しのぎだろうに」と笑っていた。カトリックの学生は「あの飢えに苦しんでいる虎をまのあたりにして、その苦しみを救うために自分のいのちを投げ出した王子の愛はまことに感動的だ。必ずや神の祝福があるでしょう」と祈った。仏教の学生は「われわれはみな自分のことしか考えず、他に施すことを忘れる。末の王子は慈悲の心の持ち主だったのだろう。すべてはいつかは朽ち果てるものだ。自分はあの飢えた虎を救いたかったのだろう」と王子の所業を讃えた。
そこで、かの仏典童話作家は学生たちに「君たちはまだ王子の本当の気持ちをしらない。それでは大事なことを見逃している」と叱咤したのである。
そして、次のような話をした。「私は戦時中、子供を疫痢で亡くし、茫然自失の状態であった。やがて、終戦となり、街は焼け野原となり劣悪な環境のなか、大勢の孤児たちで溢れていた。この孤児たちの面倒を見ている一人の僧がいた。あるとき、その中の女児が疫痢にかかり、下痢と高熱にさいなまれていた。医師も病院も薬もない。彼は必死に介護し、あろうことか、肛門に口をあててただひたすら膿を自分の口で吸い出していた。一晩中そうしていた。明け方ようやくその子の熱が下がると、その僧は、よかった。よく生きてくれたね!よかった。よかったと、ぽろぽろ涙をこぼしながらその子の身体をいつまでも撫でていた。ボクはこの情景を目にして、今でも忘れることができない。嗚呼、ここに!本物の坊さんがいたと思ったのだ!
ところで、学生諸君!この僧を突き動かしていたものは何だったのだろうか?はたして君たちに理解できるだろうか?」という締めくくりであった。
いま、ロシアの軍事侵攻によって、世界は、一挙に力の支配という脅威をまのあたりにしている。果たして、人類は、この暴力性の問題を克服できるのであろうか。
この武力という闘争の背景にあるものはなんであろうか。人間の恐怖心である。戦争を仕掛ける者にも祈る神があり、侵略される者にも祈る神があるが、まさか、神々まであのサタンとミカエルのように戦争をするとでも言うのであろうか?敵国を呪い殺す祈りなど祈りといえるのであろうか?
前号に書いたように、イザヤ書の不思議な言葉に偶然導かれたことで、こうした愚かな人類を超えている神々の響きを感受してはいる。
だが、それにしてもこうした武力による闘争から脱することはできないのか?武力による闘争こそが人類の原罪である。そこからの解放はあり得るのであろうか。
武力闘争の背後にある自己中心性からくる恐怖心即ち自我我欲と執着に対する人間の意識の変容が起こらない限り、未来はないのかもしれない。
その変容を起こす鍵となるものがブッダによって示唆されている。
「刻々に死んでいること、あらゆるものに対して、数多くの昨日に対して、そしてたった今過ぎ去った瞬間に対して死んでいるという実相をみぬくことが、いかに必要であることか! 死なくしては、新生はない。死なくしては、 創造はない。過去の重荷はそれ自身の連続性を生みだし、そして昨日の心配は、今日の心配につながっている。
すなわち、昨日は今日を永続させるが、明日は依然として昨日のままなのだ。しかし、実相は刻々の死によって起きている新たな生であることに気づかない限り、死んでしまったものにすぎないものに執着し、何時までも持続させようと我欲に走り、妄想の連続性からの解放はない。実相は死によって新たな生、新たな喜びがもたらされているものである。この、すがすがしい晴れた、新しい朝は、昨日の光と闇から自由である。あの鳥のさえずりは初めて聞かれ、そしてその子供たちの叫び声は、昨日のそれではない。われわれは昨日の記憶を引きずっており、そしてそれが、われわれの存在を暗くするのだ。
精神が記憶の自動的な機械であるかぎり、それは、休息も、静謐も、沈黙も知らない。それは常に、それ自身をすり減らしていくのである。静謐であるところのものは生まれ変わりうるが、しかし不断の活動のうちにあるものは、すり減ってしまい、そして無用である。 汲めども尽きぬ源泉は終わることのうちにあり、そして死は、生と同じほど身近にある。」
終わるという死が恐怖である限り、常に死が脅威となり、その脅威が武力闘争を起こさせる。しかし、刻々に死ぬものである実相を感受するものは、そうした外面的死を恐れることは無く、刻々に死を生きるものとなる。このとき外圧的死の恐怖は意味をなさなくなるであろう。
この現象界においては、いのちというものは実に脆くてはかないものである。それを盾にとって武力侵攻を企てるものは、まさに、限られた現象世界に固着する。だが、それは空しい。この現象界の脆くてはかないいのちが大宇宙の森羅万象を刻々創造している源であることを深く理解するものは、いかなるいのちをも粗末には扱わないものだ。
萬歳楽山人 龍雲好久
参考文献 花岡大学による大学での講話
j.クリシュナムルテイの手帖 大野純一訳 春秋社