今世界中を震撼させているさまざまな問題の根源にあるものは生命の存続と死の恐怖である。これまで、心の通信はこうした問題を問うてきた。しかし、残念ながら、こともあろうに、核の脅威をかさにかけて侵略するという戦争による蛮行が未だに止められずに半年が過ぎた。我々は、この現実を直視しなければならない。イザヤ書にもあるように、神を「万軍の主」としてあがめているが、悪はこれを滅ぼさねば、決して平和はないのだろうか。
ブッダはこの問題をどう問われるのだろうか。
この問いを前に、昭和47年に大学宗教学研究室におけるゼミで取り上げられていたJ.クリシュナムルティの諸考察は衝撃的であり、以来、彼の論点を注視してきた。
そして、今回、彼の「暴力 怒り」に関する考察を取り上げざるを得なかった。これはブッダの視点に最も近いものであろう。
はたして、われわれの子等にどのような時代を生きることを強いてしまうのか。深い憂いがある。
今ほど、彼が二度の世界大戦のさなか、いのちがけで問うていたことをわれわれひとりひとりが真剣に自身に問わねばならない時代はないであろう。
「暴力 怒り」
恐怖と快楽、悲哀、思考そして暴力はすべて関連している。
暴力の根源をつきとめ、それから解放されることは可能だろうか。さもなければ、われわれ人間は未来永劫に互いに戦いあって生きてゆかねばならないのである。
明らかにあなたもが、そうした暴力から解放された生き方を望むのであれば、それを実行に移さねばなるまい。
しかし、あなたがもし、「残念なことだが、暴力をこの世界からなくすのはまったく不可能である」というならば、この真剣な問いは終わらざるを得ない。
それゆえ、われわれ自身の内部にある暴力とこの野蛮きわまりない世界に存続する暴力を全面的に根絶させることが可能かどうかという問題を真剣に考えてみよう。
我々は自分の内部にほんの少しの憎しみや嫉妬、不安もしくは恐怖が微塵もあってほしくないし、全き平和とともに生きたい。このすばらしい地上において生を享受したい、かくも完全で、かくも豊かで美しい世界にあって生きたいと思う。豊かな大自然の樹木や花、川や牧場、少年少女たちの嬉々とした姿を見たいし、同時に完全な平和と安らぎをもち、円満に生きてゆきたい。
では、どうしたらよいのだろうか。
社会的な暴カ・・・戦争、暴動、国家間の反目、階級闘争といった外部に現われた暴力だけでなく、われわれ自身の内部に隠された暴力をも正しく見つめる。これがわかることで、われわれは暴力を克服することができるであろう。
だが、過去何世紀ものあいだ、人間は暴力とともに生きてきた。世界中のいろいろな宗教が人間のもつ暴力性をなくそうと教化してきたにもかかわらず、人間の暴力性は止まない。どの宗教もこの暴力を止めることに成功を収めていない。
したがって、この問題を深く探るには、これまでのありようにとらわれず、全く新たに真剣に取り組まなければならない。
この暴力の問題について真剣に考えてみようとするが、どうであろう。自分はそれほど本気で取り組んでもいないし、何らかの行動を起こそうともしていないのではないか。それに、自分のような人間がひとり行動を起こしたとて、いったい何の役に立つというのだろうかとさえ感じている。
だが、この、残虐で悪意に満ちた暴力を前にして、他人がその問題を真面目に考えていようといまいと、私自身が真剣にならざるを得ない。一人の人間として、この暴力の問題について一生懸命に考えねばならない。
先ず、自分自身に対して暴力的であるかどうかを調べなくてはならない。というのも、自分や他の人間に「暴力をふるってはいけない」と強く命令したとしても、自身が暴力的であるのであればまったく無意味なことだからだ。
そこで、自分自身がこの暴力の問題を本気で理解したいと思うならば、暴力を見極めねばならない。
さて、暴力の問題の所在は何か。この問題を外的世界において解決することを望むのか。それともあなたの内部に巣食う暴力を追求することを望むのか。かりに、自分自身の内部に暴力が存在しないとすれば、「この暴力と欲深さと貪らん、嫉妬、残虐性で一杯の世界にあって一体どのように生きてゆけばよいのか」ということだけが問題になろう。私ははたして殺されないですむだろうか。戦乱の起きている社会では、兵役の義務を拒否したために投獄されたり、戦闘を拒否したために銃殺刑になるかもしれない。否応なしに被弾し、銃殺されてしまう。
このことは何よりも重要である。
まず、われわれは暴力を観念としてではなく、一つの事実、人間、つまり私自身の内部に巣食う事実として直視し、理解するものでなければならない。そして、一度この問題に取り組んだら、最後までやりとげ、絶対に途中で投げだすまいという決心が必要である。
自分自身をありのままに見つめるならば、自分自身が暴力性をもった人間であることはいまや明白である。私は怒りの中の暴力、性的要求にともなう暴力、憎しみと敵意を生みだす暴力、嫉妬にからんだ暴力、その他もろもろの暴力をみずから経験している。それを自覚した上で、自分自身に問うのだ。「戦争という形をとった暴力だけでなく、あらゆる暴力を問題をとり上げ、その問題の所在を理解したい。だが、人間がもつこの攻撃性は動物にも存在しており、私自身がその一部であるのだ。」
暴力は、単に相手を殺すことだけではない。激しいとげのある言葉を投げるときも、ある人間を無視したそぶりを示すときも、また恐怖にかられて服従するときも、暴力は存在する。それゆえ、神の名の下に、あるいは社会や国家の名の下に行なわれる組織的な虐殺だけが暴力ではない。それはもっと微妙な姿で人知れないところにもひそんでいる。この暴力の根深い問題を徹底的に探求しなくてはならない。
あなたが自分自身をインド人、または回教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人などの名称で呼ぶときに、あなたはすでに暴力性を示している。なぜだろうか。それは、あなたがみずからを他の人々から分離させているからにほかならない。信仰や国籍や伝統によってみずからを他と切りはなしてしまうところに、暴力が育つ母胎が生まれるのである。
だから、暴力について理解しようとするものは、どの国にも属しないし、どの宗教、政党、偏向性をもつシステムにも属していない普遍性をもつことが肝要なのだ。そうでなければ、人間のもつ全的な理解力は発揮されない。
一般的に、暴力に関する考え方は大別すると次のようである。一つは、「暴力は人間生得のものだ」というもの。もう一つは、「暴力は人間が受けつぎそこで生きている社会的文化的遺産の結果である」という考え方である。
しかし、自分がどちらの考え方に属するかなどというより、問題は、われわれ人間が暴力性を有しているという事実にある。
怒りは一番ありふれた暴力の現われの一つである。たとえば、自分の妻や妹が人から攻撃されたときに怒るのは当然だとか、自分の考えや原則や生き方が他人によって攻撃されて怒るのは正当だとわれわれはいう。また、自分の習慣やとるにたらない意見が攻撃されたといって怒ることもある。あなたが私の感情を害したり私を侮辱すれば、私は怒るだろう。そして、もしあなたが私の妻と駆落ちをすれば、私は嫉妬の情に駆られるだろう。妻が私の所有物だから、この嫉妬は正当とみなされる。以上あげたような怒りは、すべて道徳的に正当化される。殺人ですら、祖国のための殺人であれば、これもまた正当化される。したがって、暴力の一部をなす怒りについて語る場合は、自分自身の性向や外部からの働きに基づいてその怒りが正当か正当でないかといった観点から怒りをとらえるか、あるいはただ怒りそのものだけしか見ないのか。しかし、正当な怒りというものがはたして存在するのだろうか。
自分の家族や祖国、旗とよばれる色のついた布切れ、信仰、観念、教義、自分が大事にしているものが侵害された瞬間、そこに怒りが顕わになる。その怒りそのものを注視できるだろうか。怒りを弁護したり非難したりせず、直視することができるだろうか。
怒りは自分の一部であるからそれを冷静に見つめるということはきわめて難しい。しかし、あえてそれをしなければ、暴力の問題を理解することはできない。私の肌の色が何色であろうと、私が暴力性をもった人間であることに変りはない。その暴力性を遺伝的に受け継いだのか、あるいは社会が私の中にそれを植えつけたのか、そのような瑣末なことではなく、果たして、その暴力性から解放されるのは可能かどうかということが重要な問題である。
暴力性から解放されるということは、人類にとってはすべてを意味している。何よりも重要なことである。
暴力が人類を堕落させるからである。暴力が人類を破滅させ、世界を破壊する。人間はそれを理解し、それを超越できるかが問われている。
人間ひとりひとりには、この世の中のあらゆる怒りと暴力に対して責任がある。それは単なる言葉の上だけではなく、自分自身に対して、もし私自身が怒りを超越し、暴力を超越し、国籍を超越することができさえすれば、何かが起こる。自分自身の中にある暴力性を真剣に問うことから、この問題を何としても解決しようとする激しい熱情と生命力が生まれるのである。
だが、暴力を超越するためには、それを抑えつけたり、否定したり、「暴力は私の一部であって、それが問題だ」とか「私は暴力を欲していない」とかいってすませてはならない。それを見つめ、詳しく調べ、十分にそれを知らなければならない。しかし、暴力について十分に知るには、それを非難したり正当化してはならない。にもかかわらず、われわれはたえず、暴力を非難し、正当化しているのみで、その本質を見ない。
暴力行為をやめさせ戦争を中止させたいと思うが、はたして自分はそのためにどれだけの力を注ぎ、自身をどれだけそのために捧げうるのか。いま、戦争で起きているように、自分の子供たちが殺され、息子が軍隊に入ってさんざんいじめぬかれたあげく、結局、戦場に送り込まれて、虐殺の憂き目にあうという無慈悲な状況は、あなたにとってどうにもならないことなのだろうか。いったいあなたは何を考えているのだろうか。金を後生大事に守ることか、それとも愉快に時をすごすことか。薬をのみちらすことか。あなたは自分の中にある暴力性があなたの子供を破滅させることになることに気がついているのだろうか!
それとも、いいがかりにすぎないのだろうか。
そんなことはない。人は誰しもが、暴力の問題に心を悩ましている。それだけに、他人事ではなく、ひとりひとりが、全心全霊をもってその解決に当らなければならない。
それでは、問題の核心にまた戻ろう。
われわれの内部に存する暴力性を根絶することがはたして可能か否か。
どんな戦争も、人間と人間、つまりあなたと私との間にますます多くの障壁を築いただけにすぎない。われわれは暴力をとり除きたいと思っているが、はたしてどのような方法に訴えれば可能なのだろうか。だが、いくらその分析をわれわれ自身が、あるいは専門家が試みたとしても、何も得られるところはないかもしれない。ただ、そうすることによって多少なりとも自分自身を変えることはできるかもしれない。また、いままでよりもいくらか多い愛情を抱いていささかでも平和に生きることができるようになるかもしれない。しかし、そのこと自体、何ら全的な問題の把握をもたらさないのである。
だが、無関心であることが最も愚劣である。関心を持って、起きている事実を直視するならば、心はきわめて鋭敏なものとなり、そうした心の鋭敏さ、注意力の集中、真摯さによってはじめて問題を全的に把握できるようになるであろう。人間は事物の全体を一目で見ぬく眼をもっていないかもしれないが、その細部をあるがままに見ることができさえすれば、明確な眼をもって問題の全貌を見ることができるようになる。
現実の暴力の姿を理解するには、あらゆる注意をその問題に集中し、あらゆるエネルギーを注がなければならない。しかし、こうした注意力とエネルギーも、架空の理想世界を創り出すと消失してしまう。だから、あなたは非暴力などという理想を完全に追いやらなければいけない。本当に真剣に生きようとしている人間、真理とは何か、愛とは何かを見出そうという強い衝動に駆り立てられている人間は、人がこね上げた宗教やイデオロギーや概念などという無用の長物を相手にはしない。
あなたが自分自身の怒りについて調べようとするときは、それに対して一切の判断力を働かしてはならない。なぜなら、少しでも怒りと正反対のものを思い浮べるや否や、あなたはすぐさま自分の抱いている怒りを非難しはじめ、そのあるがままの姿を見ることができなくなるからである。あなたがあの男は嫌いだ、あの男を憎んでいるというときは、語気がすごく強く感じられるが、それはあくまでも事実であろう。だが、そのことを直視し、その真の姿を見るようにすれば、嫌悪感も憎しみも消えてしまう。だが、「私は憎んではいけない。心を愛で満たさなければいけない」というとき、あなたは二重の価値基準をもった偽善的世界に生きているのだ。現在いまを完全かつ十分に生きるということは、現在存在するもの、現実とともに生き、非難や正当化をまったく捨ててしまうことである。そして、完全に問題の全容をはっきりと理解できれば、あなたはその問題を解決できるのである。
だが、あなたは暴力と正面から向きあってはっきりとそれを直視できるだろうか。あなたの外部の暴力だけでなく、あなた自身の内部の暴力を正視できるだろうか。
このことには、きわめて探い瞑想を必要とするのである。
問題は、事実の直視を実行するか、実行しないか、どちらか一つである。自分の家が燃えているというのに、あなたはいたずらに時を無駄にして迷っているのだ。世界中にみちみちている暴力、そしてあなた自身の中の暴力のあらわれとして家が燃えているのだ。それにもかかわらず、あなたは「ちょっと考えさせてくれ。どのイデオロギーが火事を消すのに一番よいだろうか」というのである。火事で家が燃えているときに、水を運んできてくれた人間の髪の色など誰が問題にするだろうか。
萬歳楽山人 龍雲好久
参考文献:『自己変革の方法』
著 者 クリシュナムーティ著メリー・ルーチェンス編/十菱珠樹訳
出版社 霞ヶ関書房
刊行年 平5年7月