今年は境内の草木がいつになく鮮やかであった。最近は紅葉がはっとするような輝きを見せている。空を見上げれば本堂の上空にひときわ美しい朝焼けか夕焼けの雲の輝きに圧倒されることも多い。
ある日の夕方であった、ふと見上げた真っ青な空に二羽の鳳凰が互いに向かい合って舞を舞っている。そのツガイの鳳凰の真上の中央には天女が光り輝いていた。この光景に、思わず釘付けとなってしまった。もちろん高層雲の筋雲が上空の風になびいて刻々と変化しているものなのだが、しかし、まさに極楽浄土に舞う鳳凰と如来の威光を示すかのような雲の輝きは、この寺の北西の方角にある半田山や萬歳楽山の方角から、刻々とこの寺の上空に至っていた。しかも、寺の上空でしばらくとどまってすらいる。
秋の落日はつるべ落としのように速い。よそ見をしているうちに、夕日の輝きは千変万化し、たちまち暗くなってしまう。
近いうちに、今年最後の萬歳楽山登嶺禅定の予定でいた。この萬歳楽山は古くから天女が舞う山、鳳凰が舞う山と詩歌にも詠まれている。なるほど、この日の雲の流れを見て、むべなるかなと思う。
この神々しい天女のような神のような如来のような雲の出現と鳳凰の舞う姿の雲を見て、自分が初めて萬歳楽山の山頂に独り立ったときのことがよみがえった。
当時、山登りの経験がない小生は、萬歳楽山という感受はあっても、数年探しても萬歳楽山の山頂になかなか至れないでいた。だが、それは、まるで、山自身が、小生に入山のために必要な準備を強いているようでもあった。このときのさまざまな不可思議な現象についてはこれまでに触れる機会もあったので割愛するが、しかし、この山の本命はこうした不可思議さよりももっと強烈で深いものがあった。
初めて山頂に到り三角点を見つけ、そこに五鈷杵を埋めて、しばし、ゆったりしながら上空を見上げていた。午後2時頃であったが、真っ青な空に月がかかり、大鷹が悠然と渡っていたのである。このとき、内心、非常に驚くものがあった。というのも、この日の朝、本堂で修法をしているとき、ふと、何度も挑戦して、萬歳楽山の頂上に至れないのはなぜか?いったい、この山は何を示そうとしているのか?素朴な疑問であったが、たまたま手にしていたルディアのルーンの25個の石を使って伺いを5回たててみた。驚くべきことに5回とも同じ内容が示された。それは「月」と「鷲」と「自由」というシンボルが示され、まさに、この山は「人類の意識の変容をうながしている」というものであった。しかも、「登るのは、いまだ!」と示された。それで取るものも取りあえず、すぐに登り、ついに、この日、山頂の三角点を見つけたのである。そして、そこで目にした光景が、「真っ青な空に月がかかり、大鷹が悠然と渡っていた」のである。
これは、ただ事ではないと、しばし、座を正し、禅定をしていると、次のように心に響くものがあたった。
『影が目覚め、微風に乗って朝の香りが運ばれる頃、一羽の鷲が山の頂から飛び立つのを私は見た。
鷲は羽ばたき一つせず谷へと舞い降り、黒々とした山影の中に消えていった。
その日の終わりに、私はその鷲が世間の闘争、苦労、葛藤を遠く離れて、山頂にある自分の住処へと再び戻っていくのを見た。』
『真理は道なき領域であり、あなたはいかなる道、いかなる宗教派によってもそれに至ることはできない。
真理は無制限であり無条件のものであり、それゆえいかなる道によろうと組織化されることはできない。
また、ある特定の道に洽って人々を導いたり強制したりするためのいかなる組織も作られるべきではない。もしあなたがそのことを理解すれば、信念を組織化することがいかに不可能かがおわかりになるであろう。信念は純粋に個人的なことがらであって、それを組織化することはできないし、またそうすべきではないのだ。もしそうすれば、それは死物となり、硬化して、他人に押し付けられるべき信条、宗派、宗教になる。これこそは世界中のあらゆる人がしようとしていることである。真理は狭められ、弱い人々、ごく一時的に不満をくゆらす人々のためのなぐさみものにされてしまう。
真理を引きずり降ろすことはできない。むしろ、それに上るべく各人が努力しなければならない。山頂を谷へ引き降ろすことはできない。もし山頂に至りたければ、峡谷を通過し、危険な断崖を恐れず、急坂を登らなければならない。真理に向かってあなたが登らなければならないのであって、あなたの方へそれを「引き下げ」たり、あなたのためにそれを組織化することはできないのである。』
『人は自分自身の光りとなるべきだ。この光りが、法である。他に法などない。他の法と言われるものはすべて、思考によってつくられたものだ。だから分裂的で、撞着を免れない。自己にとって光りであるとは、他人の光りがどんなに筋が通っていようが、論理的であろうが、歴史の裏づけをもっていようが、自信に満ちていようが、けっして追従しないということだ。もしあなたが、権威、教義、結論といったものの暗い陰の下にあれば、自分自身の光りであることはできない。
自由とは、あなたが自分自身にとって光りになることだ。その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。思考の構造から自由になることは、自身にとって光りとなることだ。この光りのなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。法や光りが行為から分離しているとき、行為する者が行為そのものから分離しているとき矛盾撞着が起こる。理念とか原理とかは思考の不毛な動きであり、この光りと共存することはできない。
方法とか、体系、修練といったものなど、なにもない。
見ることだけがあり、それが行為することだ。あなたは見なければならない。ただし他人の目を通してではなく。この光り、この法は、あなたのものでも他人のものでもない。ただ光りがあるだけだ。これが慈悲なのである。』
特に心に響いてきたのは次の言葉であった。
『早朝、山の頂から悠然と峡谷を渡り、夕べに再び山の頂に帰り来たるあの天かける鷲のように、人は独り、崇高な精神と何ものにも影響を受けない自由なる精神をもち、自分自身の光であらねばならない。』
これは他でもない、小生が昭和46年、大正大学在学中、斎藤昭俊教授の「宗教教育」で配布された資料にあった、ジッドウ・クリシュナムルティの『自由について』と『星の教団解散宣言』のテキストの一文を思い出したものである。この山がかかる人類の意識を変容をうながしているとは・・・・といぶかしく思っていると、突然、漆黒の宇宙に三角四面体があらわれそれがやがて青い地球となり、その中心から黄金の光が放射され、この山が潜象と現象の天地宇宙を繋いでいることをまのあたりにした。
そして、この現象世界は一者なる神、それはブッダ親説に示される「先験なる空の本不生である源泉より、刻々といまに経過し消失する」という実相のもと、「常に新たなるいのちの流れ」であり、自然も宇宙もこの現象界の生き物も魂も天使も菩薩も如来もすべてこの源泉からくる入れ子状態にあるなかで尊いいのちであり、一切のものはこの源泉を観照(内観)することで生きている。これを見失い、実体視した物質界にひたすら執着し、その物質の生滅の恐怖におびえて愚かな戦場を繰り広げている。これにひとりびとりが気づく観照の自己凝視によって、人類は意識を変容しなければならないということであった。
令和4年10月29日萬歳楽山の山頂において、この混迷の時代にこそ、かかる原点に立って、意識の変容をうながすことを確認したのであった。
萬歳楽山人 龍雲好久