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作成日:2011/06/20
心の通信H17.7.5《人はみな菩薩であるのに・・・》

 この春はことのほか花々が美しく一斉に開いて、待っていた甲斐があった。その花も今ではすっかり散って、木々の若葉が心地よい風に戯れ輝いている。大自然界は再生を繰り返しながら、全く新しいいのちを創造し続けている。
 悲惨な事故はわれわれがいつも死と隣り合わせであることを突きつけてくる。事故の犠牲になったものも、事故を起こしてしまったものも、あまりに痛ましく、その悲しみと苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある。
 自然災害や人為的災害によってわれわれはいつでもあっけなくいのちを失いかねない。この問題は、いったい、いのちとは何であるのか、生きるということはどういうことなのか、真剣に見つめることを要求する。
 そこで、今回は私自身の最大のテーマについて記すことをお許し願いたい。長文で理解しがたい内容ではあるが、人類にとって重大なテーマであると感じて、取りあげざるを得なかった。内容はこれまでの心の通信の底流に流れているものを総括する意味もある。自分個人としても、かなり重いものが含まれ、他のことを書こうと何度も思ったが、どうしても避けて通れない。悲嘆に暮れるあらゆる人類の悲しみに光りあれとまさに祈るような気持ちで書かさせていただいた。どうか、自分を含め、みなさまおよび全人類が菩薩としての本性に目覚め得ますように・・・・・ 
 この物質界に形成される私自身は宇宙の業(カルマ)の所産である。大宇宙の中にあって、唯一無二の「私」ではあるが、しかし、あらゆる宇宙の営みとカルマの所産なるがゆえに、大宇宙体のカルマの法則(原因と結果の法則)に従わざるを得ない。まして、物質的三次元の世界にある生存する限り、誰しも、その物質的生存の条件(カルマ)を背負わねばならない。さらに、われわれは宿業という先祖の業や前世のカルマを否応なしに背負っている。
 しかし、ここで大事なことは、物質界におけるカルマであろうと、先祖から継承する遺伝子的カルマであろうと、前世からの魂上のカルマであろうと、それらは個人を通して現れてはいるが、もともとは人類全体が背負っているカルマであり、それを個々の新たな生命が背負っているということで、個人的に対する恣意的なカルマではないということである。言い換えれば、個人個人のカルマは人類全体のカルマであり、全人類のカルマは、その出現したカルマの条件付けに従い個々人に作用するということである。
 これは、かなり重要なことで、カルマは単純に個人の業報(むくい)として表れるものではないということである。つまり、自分の人生上の様々な困難や苦しみ、悲嘆や不運な問題は、単に個人的な魂の前世からの因果でそうなったのではないのである。
よく霊能者や祈祷師まがいの人が、そういったことを指摘し、それを真に受けている人も多いが、それは大きな間違いである。彼らは自分の神のお告げや権威の名の下に、カルマの問題を悪業として個人化することによって、人類全体の問題を個人化・差別化してしまう大きな間違いを犯している。まさに、それは超能力願望の潜在化された権力主義の誤った解釈に他ならない。また、個人の恐怖心がそのような解釈を真に受ける背景にあるのであるが、これらは何ら真実ではない。
 では、カルマの問題とは何んであろうか。繰り返すが、宇宙の所産であるカルマが個人に作用しているとはいえ、個人というものによってカルマが定められたものではない。紙面の都合上、いきなり飛躍して申し訳ないが、まず、個人の本源は大宇宙であり、神であり、法身の大日如来である。その神が自ら展開している大宇宙の営みの中で、神自らが作り出したカルマの浄化のために人類を含めあらゆる生命体を出現させているのである。人類は神が大宇宙のカルマとして出現させた大宇宙の進化のプロセス上の流れであり、人類は今ようやく、自我に目覚めつつも、その自我の形勢そのものがそのカルマの条件付けによって形勢されたものであるため、内的自覚はいまだ貧弱であり、人類全体が真我を自覚するまでには至らず、あくたもくた同然のカルマに翻弄されているのである。
 では、われわれ自身に影響し働きかけるカルマとはいったい何であろうか。
遺伝子情報は肉体的先祖のカルマの情報をよく示す。また、われわれが生活する土地や社会、国家や民俗などは、環境上のカルマであり、地球を含む太陽系の惑星の配置上のカルマなどさまざまなカルマがある。カルマとはいわば大宇宙が顕現し存在する条件付けである。さらには、物質界を超えた魂や霊性上のカルマ。特に、魂や霊性上のカルマは意識界として幾重にも重なり、これらが全体として作用する無限に近いほどの壮大な流れにある。時空とはカルマに条件付けられているわれわれが、その時間と空間の認識の尺度によってわずかに推し測っている限られた範囲にすぎないが、全存在そのものはそういったわれわれの認識を遙かに超えて作用しあっている。全存在を認識できないかぎり、われわれはカルマ上の時間と空間に条件づけられ、当然、それらは時空を輪廻する概念を生む。
 こうしたカルマの影響を受け、時空を輪廻する主体とはいったい何であろうか。
 ここがカルマの最重要課題であり、今回もっとも探求したいテーマでもある。
 輪廻の主体を乗せる乗り物(業熟体)は個人的肉体(五官六根)の物質界から第八阿頼耶識の霊界層にまで及んでいる。しかも、これらはすべて幾層もの入れ子状になって「いま ここ」に存在する個人の背後を包み込み、全的に存在している。全て同時に関わりながら展開している。その中で「私」というものの人生が、「いま、ここ」にあって流れているのだが、その「私」というものは意識の「認識の支点(視点)」であり、その位置によって大きくそのその認識の範囲が変わってくる。
 この物質界の「私」は自我と言われる通常の「私」であるが、それは、物質界で形成されたカルマの支点によって認識されている「私」である。すなわち、日本で、両親により生まれ育ち、家庭や社会を通して形成され、成長してきた「私」自身である。これは前五識と六識により自覚されている「私」である。生老病死の条件付けによって推移される「私」である。
 しかし、これが「私」の全てではない。ごく限られた一部の「私」が認識されているだけに過ぎない。さらに、言うならば、この物質界の「私」は輪廻の主体ではない。物質的な「私」は物質が崩壊(肉体の死滅)によって、認識の手段を失うことになるが、その認識の手段によって形成された「私」はその背後にある(物質界の枠を超えた)「私」に吸収されるので、物質的には、消滅したかに見えるが、消滅ではなく、「私」という支点が切り替わるのである。
 それは、生死のときばかりではなく、日常の睡眠と目覚めのプロセス上、普段でも起きている。それゆえ、この世では、睡眠はきわめて重要である。睡眠は「自我」が「真我」に吸収され、魂としての調整を受けとる重要なときであるのだ。だから、睡眠が著しく妨げられれば、人は異常をきたし、きわめて危険な状態に至る。
 さらに深い瞑想や禅定においてもこの切り替わりはおこっている。脳波がα波・θ波・δ波などを発する場合は意識が無い?真我に還元されている状態である。
 また、極度な精神的緊張や薬物使用などによっても、これらは頻繁に起こりうるが、しかし、この場合の問題は、精神の麻痺であれば、意識は狂躁し、精神の全体としてのバランスや統合能力を失うのできわめて危険であるといわざるを得ない。人格破壊を引き起こしかねない。
 本来の「自我」と「真我」渉入のプロセス「入我我入」というものは、きわめて安全性が高く、ごく自然なものであり、通常は意識されない。睡眠時を含め、日常的に常に無意識的に心身のクリーニング、修正は為される。パソコンのオートデフラグのようなものである。われわれは、それに気づかないでいるが、この「真我(自己の本質)」による浄化・同調作用は、「私」には絶対的に欠かすことのできないものとなっている。異常がない限り、ほとんど無意識的に自動的にこの自浄作用システムが働き、浄化されているのだ。これがカルマの浄化の基本形である。
 だが、何らかの意図によりこの自浄作用が破壊されるときがある。それはゆゆしき問題である。個人の自浄作用が働かない場合、それは人類全体のカルマの問題として残ってしまうのである。人類全体が浄化すべきカルマの問題として意識層をあくたもくたのように浮遊してしまうのである。
 ところで、「死」とは自我にとって「消滅の恐怖」を伴うものの、全自我(真我)にとっては、日常の睡眠のプロセスとなんら変わりはないものである。ただ、肉体の死滅によって、認識の主体は物質を超えた世界へ認識の支点を移行するだけである。そして、おのおののカルマ(行為)によって、それぞれにふさわしい浄化の段階・プロセスを経つつ、認識の支点はさらに大きな世界、自己の本質である真我へと移行される。そもそも認識の主体は本性(本来の自分)にあるので、移行されるというのは、認識の主体が移行するというより、その支点が段階的に移行するのである。そのような認識の段階においては、死後の世界も認識の支点に応じて顕現されてくるため、物質界にいるときと同じようにその世界に自分が存在するという感覚を保有しているが、認識の主体にとって、この世と同じようにそれは仮現の世界である。その支点となるものは、確かにその人の全体の「カルマ」によって自ずから気づくべき認識の支点を決める要因ではあっても、認識の主体そのものがそのような様々な世界を移行しているのではないのだ。当然、認識の主体である真我は輪廻してはいない。真我(本来のわれわれ)は輪廻の階層に同時に偏在しうる存在であるのだ。これはかなり重要な概念で、われわれ死して後、真我に目覚め、あらゆる次元に偏在可能な無礙自在な存在となるのだ。
 さらにいうならば、輪廻の主体は業熟体と呼ばれるもので、この物質界の五官六根の世界から、仏教の唯識でいう第八阿頼耶識を包含する全カルマの総体であり、これが輪廻の主体たるものである。人間の認識の主体はこの業熟体をも超えるダンマ(法身)にまで、移行しうる。それを達成し証明したものがお釈迦さまである。その境涯をに達したものを仏陀という。仏陀は全宇宙を包含する空無なる本源であるとともにダンマ(法身)としての全宇宙を顕現せしめているがゆえに、あらゆる人類の業熟体に働きかけ、無限のダンマが顕わにならしめることを可能にした。全人類、全生命体をして真我に目覚めさせるべき法輪を転じている。仏陀出現によって全人類は、はじめて、永い輪廻の呪縛より脱出して、真我に目覚めることが可能になったといえる。
 さて、次にさらに重要な問題に入りたい。それは、人間としての「私」が顕現されている魂はこの地上でいかなる生涯を送ろうとも、死後、自我が吸収される「真我」の一側面である「菩薩」という輪廻の主体に移行するものということである。
 古来からの輪廻観では、この世の「カルマ」によって、死後、動物に生まれ変わったり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界に生まれることが説かれ、また、今日でいう霊感や霊能によって、そのような輪廻世界の種々相をかいま見た経験者は無数あり、拙僧もこういう世界は何度も経験し見ている。しかし、誤解してはならないことは、餓鬼とか畜生とか表現された世界は、決して人間と動物との差別をいうのではなく、カルマにより形成された人間の迷いの状態をあらわしている。
 動物・植物・鉱物にも種々の意識層があり、しかもそれら森羅万象悉く仏性の顕現であるが、彼らは、どの人間よりも純真無垢である。カルマの浄化の役割をひたすら黙々と果たしている存在である。
 地獄に堕ちるというのは、この世の自我である「私」という主体が地獄の世界等を浮遊するというよりも、この世の「私」の生涯を通し作り上げてしまったカルマが意識界で浮遊しているということである。カルマが浄化しきれず潜在して残るということで、新たな生命にとっては、これが浄化するべき課題となって残る。浄化できるまで、この課題は全生命・全人類のトラウマとして残る。
 新たな生命・人類はこのカルマの浄化をめざして出現している。特に人類は、このカルマの問題を自覚する意識すなわち「私」をもって出現している。仏教でいう「菩薩」とはこの「世界カルマ」の浄化を誓願してる存在を示すものであるが、まさしく、これこそが、「全人類」の本当の課題であるといえる。
 まさに、「人身受け難し」である。大宇宙の計り知れない営みの中から出現した人類は大宇宙の意志を認識し、それを体し、大宇宙大自然界を調和に導く、まさに、これが「菩薩」なのである。人として生まれること自体、奇跡的である。「菩薩」なるが故に自我が菩提心として発心するのである。
 こうした観点から見れば、「人が死ねば、皆、本来の菩薩に戻る」と言っても過言ではない。地獄に落ちるものは誰もいない。しかし、何度もいうように、人の生涯で刻み込まれた悲しみや苦しみ恐怖や不安や憎しみといった心や魂の傷即ちトラウマは人類の意識層に残り、浮遊することを忘れてはならない。これが、この物質界を含め阿頼耶識に至るまで地獄の諸相を呈している。深刻なことは、これらが地上に生るものや新たな生命のカルマ上のトラウマとなって働くということである。すなわち、「人」=「菩薩」によって、このカルマの浄化がなされるまで、まさしく、地獄にあって、その誓願を果たし続けるようなものである。それは、まさに、この不調和な地上界に出現するわれわれ自身の課題として跳ね返っているものである。全生命の浄化のプロセスが大宇宙に作用しているからこその地獄界なのである。
 それゆえ、個々人のカルマ(行為)の責任は重大だと言わざるをえない。まさに、「私」の悲しみ、苦しみは「全人類」の悲しみや苦しみであり、「全人類」の悲しみや苦しみが「私」の悲しみや苦しみである。それだけに、個人が自己の人生を通し一つでも多くカルマの浄化を果たすことは、全人類、全宇宙のカルマの浄化に大きく寄与するということに他ならない。
 人は亡くなれば皆本来の菩薩にたちかえり、生前の縁や誓願によって人類救済の活動を行う。肉体を有すればそれぞれカルマによる制約があり、思うように働けないし、エゴとエゴとの争いを繰り返すことが多かった。しかし、死ねば皆、本来の魂である「菩薩」に還り、その歪みの調整にかかる。その調整の世界が霊界と言われる意識界で、そこには段階に応じて、調整に必要なあらゆる環境が調えられている。それぞれの意識界での調整も、その本質はカルマ浄化のプロセスにほかならず、全人類の意識層に大きく反映されるのである。これは、本体がその世界を遍歴するのではなく、カルマの浄化のプロセスが働いている仮現の世界だということである。即ち意識の種々相、あらゆる階層に及んだカルマを浄化するため、「菩薩」はあらゆる階層で浄化のプロセスを同時に働きかけるのである。物資界から、さらに六識、七識、八識の阿頼耶識まで菩薩はカルマ浄化のプロセスとして、同時に顕現している。そして菩薩が向かっている世界は九識以降の究竟である涅槃寂静の「空」、密厳があるがままに世界に現出することをおいてほかにない。
                            萬歳楽山人 龍雲好久