作成日:2011/06/20
心の通信H17・8・20《気づき》
気づき
するとひとりの女が言った。お話ください。苦しみについて。
アルムスタファは答えていった。
苦しみ、それは、あなたの理解を被っている殻が壊れること。
果実の芯が陽に触れるためには、まずその核が壊れねばならないように、あなたも苦しみを知らねばなりません。
あなたの日々の生活に起こるさまざまな奇跡へのおどろき。それを心に常に生き生きと保てたなら、苦しみも喜びにおとらず不思議に溢れていることがわかるでしょう。
田畑の面を過ぎて行く季節を、いつも自然に受けとめてきたように、心の季節をもあなたがそのまま受けとめられたなら。
苦しみの冬を通しても、清朗さをもって目をみはっていられたなら。
苦しみの多くは自ら選んだもの。
それは、あなたが自身のなかの、うちなる薬師が、病んでいる自分を癒そうとして盛った苦い苦い一服。
それゆえに、この薬師を信じなさい。そしてその薬を沈黙と静穏のうちに飲みほしなさい。
なぜなら、その手がどんなに耐えがたく厳しくても、「見えない方」の優しい手で導かれているのですから。
そのもたらす杯がどんなにあなた方の唇を焼こうとも、「陶工である方」がご自分の聖なる涙でしめらせた土でつくられているのですから。
(詩人カリール・ジブラン著『予言者』。佐久間 彪訳。至光社)
これはレバノンの詩人カリール・ジブランの詩の一節であるが、人生における「気づき」がいかに大切であるかを如実に示しているとと思う。
ゴウダマシッタールダ釈迦牟尼佛(お釈迦様)も、苦悩に喘ぐわれわれに対して、決して説教がましくなく、常に人生の探求者として、人々とともに、ひとりの探求者として、互いに尊敬し合いつつもお互いの気づきを大切にするものであった。釈尊が共に歩む人々は、集うことがあっても、真理の探究者として、みなが平等であり、みながそれぞれに独り居るものであった。 決して、神懸かりや奇跡によって人々を扇動したりするようなことはなく、何よりも自らが教祖的カリスマに依存したり、また、教義や布教によって人々を感化しようとすることがいかに真理探究を妨げることであるかを示し、互いに探求のまなざしを曇らせることのないよう、ひとりひとりの覚醒・気づきを大切にされるお方であった。
それは、仏教とかキリスト教かイスラム教といった教えに基づいた人生ではなく、まさに、他の誰の人生でもない、「あなた自身の人生の中であなた自身が探求者である」という立場に他ならなかった。「あなたが真理に目覚めなくて何の意味があるというのであろうか」「目覚めよというがいったい誰が目覚めねばならいというのであろうか」 真理はあなたを離れて外にはなく、あなたの人生そのものの中にある。だからこそ、あなたは、いかに矛盾と混乱と苦悩に満ちた人生であろうとも、決して、そこから逃げ出すことなく、ありのままの人生を凝視することを通して、大いなる真理に気づかねばならない。
ただ、ひとつ注意せねばならないことがある。それは、「大切だと思うこと」があると「それが次の探求の妨げとなっていること」に気づきかないということが応々にしてあるということである。真理は刻々であり、気づきも刻々である。刻々の気づきがあるためには心はいつも、あの青空のように、あの無邪気な幼子のように天真爛漫でなければならない。
ひとたび自分が気づいたことや悟りの内容に価値を見いだし、こだわりを持ったときから、あなたは探求心失いかねない。いかに口角泡を飛ばし、自らが気づいた真理を説き、相手を信服させ、多くの信奉者を集めようとも、探求心を失っているかぎり、不毛である。自己主張のあるところに探求心はない。自己主張は孤独である。探求心による自己理解は独居でありながら、限りなく豊かで創造性に溢れている。一見どちらも独りであるが、前者は恐怖に満ちた猜疑心と狭隘な精神の孤立の結果であり、後者は独りあるものの天真爛漫な全的な結果である。
「気づき」を基とした探求心を失うことはことこれほどの違いを見せる。あなたは果たしてどちらであろうか。
その囚人は長年にわたり、独房に監禁状態で暮らしていた。だれにも会わず、話を交わすこともなく、食事は毎回、壁の通り窓を通して出された。
ある日、一匹のアリが独房に入ってきた。男は魅せられたようにアリの動き回るさまを見つめていた。もっとよく観察できるように手のひらにのせ、ちょっとした餌を与え、夜はブリキのコップの下に休ませた。
そういうある日、彼は電撃に打たれたように悟った。アリの愛らしさをしみじみと感じられるまでに、独房での十年にわたる生活が必要だったと。
(アントニー・デ・メロ神父著『蛙の祈り』裏辻洋二訳 女子パウロ会)
萬歳楽山人 龍雲好久