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作成日:2011/06/20
心の通信H17・ 9・ 5 《全ての先祖があなたとしていまに生きている》
  全ての先祖があなたとしていまに生きている

 墓所での供養を終え、庭の中道を戻ると、木々の茂みから無数の蝉群がバラバラと一斉に飛び出した。その数のなんと多いこと、こんな光景は初めてであった。この夏は蝉が多く、夜中でも昼間のごとく鳴き通しであった。蝉の時雨れる季節は盆の季節。盆の季節は先祖をお迎えし、しばし時を同じくする。13日に迎え16日に送る。蝉のいのちもわずか三日ほど。もしかするとあの蝉に乗ってご先祖達は帰って来るのかもしれない。今年はずいぶんと多くの先祖や精霊が戻ってきてくださったのだろう。しかし、そんな思いでこの夏を過ごしたかたはどれほどいたのであろうか。厳しい経済情勢のさなか、先祖どころではなく仕事に精を出していた方もあろう。あるいは夏休みで家族して万博でも見に行った方もあろう。そして、万博会場でも蝉が鳴いていた。きっと、先祖も一緒に見にきて、驚き楽しんでくだっているのだと思う、そんな声も聞こえそうだ。
 そうこうしているうちに、盆も過ぎ、あれほどの蝉も少なくなり、なごり夏を思う風鈴の音が葉群を心地よく渡り、瓦屋根に陽光がまぶしく舞う頃となった。
 そんな折り、ひとりのおばあさんが寺を訪ねてきた。「なにか、この頃、家の中で怪我をしたり、思いがけないことが頻繁に起きたりして、お障りでもあるのかとどうしても気になりましてね・・・」と、家族に起きているいろいろなこと、子供や孫たちがいっこうに仏壇に手を合わせることもなく、先祖や、亡くなったおじいさんやおばあさん、亡くなった夫のことなど少しも気にとめる風もなく、なにか自分だけがひとり仏間に取り残されているような気がしてならない。どうしてみんな昔のように家族して墓参りやご先祖をお参りして団欒したり、朝晩、手を合わせることもしなくなったのか。これでよいとは思えないし、どこか心配である。それに、仏壇の祀り方が悪いのか、花の飾り方や位牌の位置に問題があるのか、どうもあまり家庭内でよいことがないし、火の消えたように暗い家庭である。仏壇の中に遺影を入れておくのは良くないと言われ、そのせいなのか気になって仕方がない。家の中が思うようにいかないのは、何かこういったご先祖をないがしろにしていることにあるのではないかなどと縷々述べ、拝んでほしいというのだった。
 確かに、我々の暮らしぶりや信仰の有り様は昔とはずいぶん変わった。こういったことを気にかける人もいるし、気にかけない人もいる。それでもこうした祖霊信仰はまだ日本人の底流に流れているとは思う。それに、いかに進歩した現代とはいえ、人々の不安や問題がなくなったわけではない。何か困難な問題に直面すると、不安が募り、こういったことが気になり出す。まして、テレビなどを通し、カリスマ的祈祷師がズバズバそういったことを口にするのを耳にすればなおさらのことである。しかし、問題はこういった祈祷師が指摘する内容のほとんどは根拠のないものばかりであることだ。彼らは独特のパフォーマンスでそのことを勝手に言い放っているだけなのであるが、それを真に受けて気にしてしまう現代性に問題がある。現代人は孤独で脆いものなのだろうか。
 どうだろう。すこし考えて見ればわかるように、あなたの「いのち」は両親からもたらされ、その両親はまたその両親、その両親はまたその両親というように、そのいのちは宇宙の始まりから連綿と引き継がれてきたいのちであるのだ。あなたの中には父のいのちも母のいのちも、それぞれのお祖父さんのいのちもお祖母さんのいのちも曾お祖父さん曾おばあさん・・・・・・連綿とひきつながれたいのちであることは確かだ。ということは、先祖というのはかつて生きていたいのちではあるが、現在の我々自身とともに今を生き続けているいのちでもあるのだ。すなわち我々自身は無数の先祖とイコール。先祖は私という姿で生き続けていると言っても過言ではない。
 それだけに、我々が不幸にも苦しみ嘆き悲しんでいることは我々に繋がり我々自身として生き続ける無数の先祖が同時に苦しみ嘆き悲しむことに他ならない。もし、先祖供養が大切だというのであれば、先祖自身である我々が本当に幸せになることをおいて他にないのだ。
 もちろんかつて自分のようにいのちを受け継ぎ、後のいのちのために身を粉にして働き続けいのちを全うしてくださった先人を敬う心は、自分が今日いかに生きるかを考える上でも大事なことである。
 ただ、最も大事なことは受け継いだ自分のいのちを大切にすること、自分のいのちであって自分のいのちでない。この自分のいのちはまさに無数の先祖そのものであり、自分を大切にし、供養することは先祖を大切にし供養することに等しいということであること。
 釈迦牟尼佛世尊が死後のことを気にしている人々に向かって、「死後の世界を考えることより、いまのあなた自身がその苦しみから抜け出なければならない。本当の安らぎを得なければならないのだ」と仰せられたのも、ここにある。
 蝉のいのちは儚くとも、過去も未来も「ただ、いま」こそがいのちの燃えるときと教える。そのいのちをいまに全うすることにこそ全生命力は注がれていることを知るべきであろう。

       萬歳楽山人 龍雲好久