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作成日:2011/06/20
心の通信H17・11・17《生死一如》
 生死一如

 朝晩めっきり肌寒くなり、深まり行く秋に時の流れが早さをいっそう身にしみる。
一瞬の輝きを放った木々の葉もはらはらと散り、少しずつ眠りにつきはじめた。ほどなく深い沈黙の中で厳しい冬を過ごすのだろう。
 電動車いすに乗って、ひとりの老婆が寺を訪れたのは確か昨年の今頃であった。
「この頃ね、歳をとってきて、耳も聞こえないし、目も悪い、足下もおぼつかないし、ひとりで暮らしているとね、とても不安でたまらない。自分には子供もいないし、夫もずっと前に亡くなった。親戚兄弟といっても、世代も変わり、そう迷惑もかけられない。このままいったいどうなっていくか、先のことが心配で、夜もよう寝られんのですわ!」と小さな身体で思い詰めたかのように必死に訴えかけてくる。耳が遠いので一方的に聞くだけであった。その話はおおむね次のようであった。やっと施設が見つかり、そこに世話になることになった。今、住んでる家はみな処分することにしたが、仏壇とお位牌、それにお墓のことはどうすればよいか。位牌は自分が生きてるうちは手許に置けるが、仏壇やお墓は自分がいなくなった場合、だれも世話するものはいなくなる。これをどうするか。親戚には頼りたくないし、自分が死んだ後は永代供養してもらえないだろうかということであった。「まだ、気をもまれなくても大丈夫ですよ」とは言ったものの、自分の死後のことも含め、身体が動き、意識がしっかりしているいまのうちにきちんとしておこうとする老婆の姿には、寂しさや弱々しさは微塵も感じられず、自分のありのままの人生に対し、毅然とした圧倒されるほどの気迫を感じた。
この寺にはまだ、永代供養の墓はないが、そのうち必ず建立しようと思っているのでから、安心するように話すとほっとした様子であった。
 翌日、再びやってきて「これを永代供養墓建立の足しにして欲しい」といきなり大金を置いていこうとするので、あわてて止めたが、決意は固く、やむを得ず領収書を書いてお預かりすることになった。
 それから、程なくして、12月に入ってのことだったが、何の気なしに寺の墓地を歩いていると、ふと長い間忘れられて崩れかかったままの小さなお墓に目がとまった。夕暮れの西日がちょうどそのぼろぼろに崩れたお墓にさして、かすかだが脇に刻まれた文字が見えたのだ。正面も脇も崩れ落ちて、日の当たっているところだけが不思議に文字が残っていたのだ。どなたのお墓だろうと見てみたが読み取れない。そこで、紙に黒炭をこすって浮き出させてみると、何と!それはこの寺の百年前の住職の奥さんのものであった。この寺は貧しい寺で、住職が居ない時期が何度もあり、わずか百年前といえど、時間がたつとこうして寺の奥さんの墓ですらわからなくなってしまうのだ。衝撃であった。同時に気づかずに来てしまっていたことに胸が痛い。
 原因は継ぎがなく、しばらく無住で、次の住職がやってきときにはすでに忘れられてしまったらしいのだ。この寺は360年続いているがそういった不明になった住職や寺族が何人かいた。貧しい寺に宿命とはいえ、嗚呼!何と申し訳ないことであろう!これではいけない!永代供養墓を何とか実現し、無縁化を何とか防がねばならないと痛切に感じた。
 家族制度の崩壊と著しい少子化は、これから30年もしないうちに檀家数が半減し、墓を守りきれなくなるケースは増え、無縁墓が増えてくるといわれている。これはお墓のある人も、無い人も抱えている問題であるが、自分は死んだら海に撒いてもらえばいい、その辺の野山に埋めてもらえばいいと言う方も増えているそうである。自分のいのちは代々続いて、いまここにあるという感覚も薄れ、一代限りの人生しか考えない時代になった。子孫のために木を一本でも植えておこうと考えることもなくなった。お墓も昔は一族みな一緒の墓であったが、個人化が進み、家の墓にも入らず、勝手に自分専用のお墓を用意し、あるいは永代供養墓に入って、後の者に迷惑をかけない主義の人も多くなってきた。
 それはどのように考えようと自由であるのだが、このような世情をすべて包含しうるようなお墓は何か、寺の墓地を預かる者として、これは由々しき問題でもある。
 あれから一年経って、全く不思議なことだが歴代先師・寺族並びに永代供養精霊合祀のお墓が建立されたのである。これは、大宇宙大自然界の本源である大日如来のみもとで倶会一処(みなとも)にという趣旨の墓である。もちろんあの突然訪ねてきた老婆の陰徳のたまものであった。もちろん寺としての事業であり多くの方々の協力をえて成し遂げた事業でもあった。不思議なことは永代供養墓が完成したその日、たまたま東京での法事があり、その席にあの老婆も来ており、奇しくも再会できたのである。福島の施設におるはずなのに・・・しかも、きわめて元気であった。
 人生は生死一如である。本当の人生を生きるには常に「死」を覚悟していかねばならないのだろう。墓は人にとってゴミ捨て場ではなく、祖先や仏すなわちいのちの本源、いのちの流れ、生死不二の自らの人生を真剣に生きるために「死」をみつめる場である。
 大宇宙大自然界、地球といういのちの本源を大切にする者は決して自らのいのちを粗末にはしないし、営々と受けつながれるいのちの営みの中で、決して自らの死に場所をないがしろにはしないものだ。さて、皆さんはどうお考えだろうか。

                 萬歳楽山人 龍雲好久