作成日:2011/06/20
心の通信H18.3.31《善き種子を蒔く》
善き種子を蒔く
早いものでもう2月も過ぎ、弥生となった。今朝方降りしきっていた雪もいつか雨混じりとなり、境内に積もる雪も泡雪と化した。本堂の屋根からずり落ちる雪もいささか水っぽいが、子犬には驚きらしく、突然のことに、一瞬、動きが止まる。
それにしても、この冬の豪雪はかなりすごかった。今ごろになって、根雪もさすがにすっかり融けてしまったが、雪の覆いを取ってみると、地肌にはまだイチョウの実が沢山残ったままで、松葉もたくさん落ちたままである。早い時期からの大雪だったなあと、雪かきの追いつかない日々をしみじみ思う。
銀杏は小粒ながらも豊作で、先ほど、お参りに来た近所のおばあさんが、もったいない、もったいないとお賽銭をおいて、この銀杏の実を一日かけてきれいに拾っていってくれた。果肉をむいているその素手では八十を越えてなおかくしゃくと農業で鍛えられたたくましい手であった。
さて、三月は春彼岸の季節でもある。お彼岸の風習は先祖を大切にする農耕民族日本人独特のもので、間もなく、墓は春を呼ぶ花々で賑わう。
春彼岸は仏の子として「善き種子」を蒔く季節でもある。善き種子とは彼岸(さとりの世界)に至るために蒔くろくはら六波羅みつ蜜の種子をいう。六波羅蜜とはほとけ仏・ぼさつ菩薩に「あか閼伽水を供え(ふせ布施)」、「香を塗り(じかい持戒)」、「花を供え(にんにく忍辱)」、「香を焚き(しようじん精進)」、「ご飯を供え(ぜんじよう禅定)」、「灯明をともし(ちえ智慧)」供養すること。これらは六種供養といい、供養の最も基本となるものであり、また究極の供養でこれに勝るものはないとされている。
あか閼伽水とはくどく功徳水のことをいい、すべてのいのちにこの功徳水を平等に供養するはたらきで、「むく無垢なる愛」を捧げることにほかならない。
香を塗るとは戒を保つことで、ぼんのう煩悩のねつのう熱悩を去ってほつしよう法性のせいりよう清涼を供養するはたらきであるが、これは自己のあるがままを見つめ続けることを意味する。じかい持戒とは「自己を見つめること」にほかならない。なぜならば、自分の愚かさに気づかぬ限りその愚かさからは抜け出せないばかりか、たとえ、戒律として規範を設け、それに合わせようと努力してみても、絶えず、あるべき自分とあるがままの自分との葛藤に苦しむ人間であるが故に、自分を愚かだと判断するのではなく、ありのままの自分を見つめることから、自分の愚かさに気づき、その気づきが自己を解放する。これが「戒を保つ」という本当の意味である。
花を供えるのは花は実に素直にわけへだてなく人々に慈悲の香りをかもしだし、しかもその美しさはあの汚泥に咲く蓮の花のごとく、決してこの世のおだく汚濁に染まることのないの清純無垢の本心のはたらきを意味する。にんにく忍辱とはどのようなじよくせ濁世にあろうともそれらによって決して傷つくものでない真実を示している。どんな辱めを受けても耐え忍ぶと字義どおりに受け取られがちだが、奥にある本来の自分、真我や無我が無傷であることを理解できる人は少ない。
香を焚くというのは真実の炎もっておのれやこの世のぎまん欺瞞もうしんや妄心の薪を燃やし続けるはたらきをいう。人は過去の経験や自分へのこだわりからどうしても頑なな自我を通し、その殻に閉じ籠もってしまう。そして、柔軟な心や探求心を失い、いつしか自我は腐敗してしまうものである。香を焚くということはこのような腐りきった心に堕すことなく、探求の炎を燃やし続けることを意味する。
ご飯を供養することがなぜぜんじよう禅定なのであろうか。禅定は一般に座禅といわれ、ただ黙って、ひたすら自己を見つめることをいう。精神統一や瞑想、心を鎮めるヨーガとしても知られているが、自己を知らぬものがいくら坐禅をしてもやこぜん野狐禅に堕す。人の批判やさいぎしん猜疑心に堕すものは、心が飢えており、満たされない自我がくすぶっているのである。それが野心となってがでんいんすい我田引水を張るため、常に争いや葛藤をもたらす。、その飢えた心にによらい如来のおんじき飯食を供養する。如来の御食を食すには禅定が必要で、その禅定は自己のあるがままを見つめ、自己の愚かさに気づき自我を解放することで自ずとすべての生きとし生けるものを慈しんで止まない、滋養となり滋味となって働く仏のはたらきが自分の中に自然に働いてくるのである。禅定とは個人を離れた、すべてのいのちとつながった本来の自己、ゆうずうむげ融通無礙の無我が顕われるほつかいたいしよう法界体性の世界に生きることにほかならない。
灯明を供養するとはむみよう無明のちあん痴暗をはらす観察の智慧をはたらかすという意味がある。観察の智慧とは、自己の鏡を通して世界を見ること、によじつちじしん如実知自心のことだが、ひたすら観ることの中にこそはんにや般若の智慧が働いているものである。見るものと見られるものの探求を通し、自分を理解していくのであるが、自分を見るには自分を含み越えたさらなる奥の自分の眼が開かれねば、見えてこない。見る目を妨げるのは自我というこだわりである、これが外れるには葛藤が理解され含み越えられねばならない。そのようにしてみるものは深まり、高まって、最終的に「私は誰?」ということになる。観察そのものが智慧であることを知るものは少ない。
さて、この春、穏やかな日差しもと、お互い善い種子を蒔いて育てようではないか。
萬歳楽山人 龍雲好久