作成日:2011/06/20
心の通信H18.5.13《われもまた耕すものなり》
われもまた耕すものなり
萌え出でたばかりの葉群が風にそよぎ、5月の陽の光がキラキラと輝く季節。豊かな大地に這う農夫たちは寡黙に仕事にいそしみ、遠く子供たちの歓声や列車の音が響き渡る。このあたりではそろそろ田に水を引くころだろう。生きとし生けるものの創造が発動するもっとも静謐でありながらもっとも力強い瞬間だ。
このような季節になると、いつも釈迦牟尼仏世尊(お釈迦様)が耕田と呼ばれるバラモンに対したときのことが偲ばれるのである。
あるとき、ゴーダマ・シッタールダ釈迦牟尼仏世尊は、インドのマガダ国の南山であるエカサーラというバラモン村におられた。そのころ、耕田と呼ばれるパーラドヴァージャというバラモンは種まきの時にあたって、五百の鋤の用意を調えていた。
ある日の朝早く、世尊は法衣をつけ、鉢をとり、托鉢に出られた。そして、耕田といわれるバラモンのところにおもむかれた。ちょうど、そのとき、かのバラモンは、人々に食べ物を分け与えているところであった。世尊はその傍らにしばらく佇んでいた。バラモンはしばらく世尊を無視していたが、やおらして、世尊にむかい、言い放った。
「おい!そこの坊さん(沙門)よ。わしらはみな、自分で田畑を耕し、種をまき、一生懸命働いているのだ。それでこうして食を得てるのだ。坊さん(沙門)よ、乞食になるくらいなら、あんたもさ、そんなところにただ突っ立てないで、自分で田畑を耕し、種をまいて、しかる後に食を得たらどうかね。見たところ結構丈夫そうじゃないか・・・ハッハッハ。」
これに対し世尊は無言でおられたが、世尊を気にしているバラモンの気持ちを察せられ、おもむろに、こう答えられた。
「バラモンよ、われもまた、耕し、種まく。耕し種まいて、しかる後に食するのである」と。 だが、世尊は実際には、鋤も持たないし、牛も引かない。だのに「われも耕し種まく」という。その意味を解しかねたバラモンは、再び世尊に向かって、言った。
「これは異な事を・・・。坊さんよ、あんたは(われもまた耕し、種まく)というが、わしらはいまだかつて、あんたが田畑を耕しているところを見たことがないね。あんたの鋤はいったいどこにあるというんだね。あんたの牛はいったいどこにいるというのだね」
こう聞かれた世尊は続けて、語った。
「バラモンよ、信仰はわが播く種である。智慧はわたしの耕す鋤である。身において、口において、また意において悪業を摘みとるは、わたしの田における草取り(除草)である。精進はわが牛であって、行いて退くことなく、行いて悲しむことがない。かくのごとくわたしは耕し、かくのごとくわたしは種をまいて、甘露の果を収穫するのである」
それを聞いたバラモンは、はっと気づくことがあったらしく、真顔になって、世尊に向かい思わず「世尊よ」と語り始めた。
「なるほど、あなたは、そのような意味では、まさに優れたる農夫である。尊者が耕し播くというは、不死の果のためであることを、今や、わたしは理解した。すばらしいことだ。すばらしいことだ。さあ、尊者よ。この食を受け給え」。
だが、世尊は、この施食をしりぞけて、説いて言った。
「偈(教え)を説いて、わたしは食を得るものではない。バラモンよ、このようなことは知見あるもののすることではない。覚者は、誦偈によって報酬を受けることはないということを知りなさい。バラモンよ、覚者は法(ダンマ)に住するものであって、法(ダンマ)こそが覚者の生活の道である。されば、もろもろの煩悩つきて、後悔をともなう行為をなすことなき、まったきダンマなる聖者に対しては、飯食をもって奉施するだけでよい。かかる施食は、功徳を求める者の福田であるからである」
これを聞いたかの耕田と呼ばれたバラモンは、釈迦牟尼仏世尊に深く帰依し、優婆塞(バラモンにありながら仏陀の道を歩む者)として自ら修行し、長く世尊を供養しつづけたのである。
さて、ここで仏陀はもちろん詭弁を弄したのではない。仏陀は世間の深い悲しみと苦しみを直視し、人々の苦しみからの解放をめざされていた。仏陀は探求と苦行の末、大宇宙に透徹して流れるダンマに目覚られ、ひとりびとりが、この人生において、自らそのダンマに目覚め、顕わにすることこそが究極の至福であることを覚られたのであった。すべてはダンマの流れにあってひとつであり、一なるダンマが個々の新たなる生命の創造活動を通して常に新しく顕現している世界を悟られたのである。
「耕田バラモン」とはとりもなおさず、この世に生命を受け、さまざまな生業を通して生活するわれわれ自身のことである。「世尊」とは大宇宙の普遍的な真実に目覚めた人のことをいうが、実はこれもわれわれ自身である。この観点で釈迦牟尼仏世尊は語りかけられている。「働く者よ、生ける者よ、人生の田を耕し、関係性の悪業たる自我の草を怠りなく取り除きつつ、真我なる如来である真の自己に目覚めよ。真の自己に耕し・ダンマなる種をまき・ダンマなるいのちの糧を供養せよ。ダンマはあくたもくたのわれわれ自身、すなわち自他を含み越えたるところにこそ顕わになるのだ」と語り続けられおられる。
萬歳楽山人 龍雲好久