作成日:2011/06/20
心の通信H18・7・21《沈黙の光》
沈黙の光
すぐ近くに産が沢という沢があって、夜道を歩くと、実に多くの河鹿がなき、蛍が飛び交う。水が張られ稲がようやく伸びはじめた棚田ではヒキガエルや蛙たちが実にかまびすしく合唱しているのだが、暗闇の中でスーッとともる蛍の光に遇うと、一瞬にして、そのかまびすしさは消え、その神秘的な明滅が不可思議なほどに沈黙を呼び覚まさせる。何という美しい光なのであろう。何もかも忘れてしまうほどの輝きである。
光は太陽のようにすべてを明るく照らし出す光もあれば、この蛍の光のように闇の奥く深さを示す光もある。長雨で増水し、怒濤のごとくあふれる濁流の恐ろしささえ、一瞬にして消してしまうこの光の神秘性は実に形容しがたいものがある。
河鹿のあの鈴を転がしたような透き徹るような鳴き声は蛍の光にも似て、よく沈黙を誘う。あの声に遇うと周辺の深山幽谷がいやさらに深みを増してくる。
この沈黙は、田んぼのあぜ道を通りかかったとき、あれほどまでにかまびすしく鳴いていた蛙たちが、人の気配に気づいて、それこそ田一面に水を張ったようにピタッと黙ってしまう、この沈黙とはまた異なるものである。
音にも光にもこの不思議な沈黙の深みがある。学生の頃に、ひとりの虚無僧が吹く尺八(わだつみ道といっていた。一度しか聞いたことがないが)の音色に出会ったが、あの不思議な感覚は今でも忘れることはできない。耳に聞こえない音から聞こえる音、そして再び聞こえない音へと本当の音の流れとでも言おうか、無から有へ、有から無へと流れる音の本質というものが、音楽にはうとい私にも、それが実によく感ぜられた。
初めての体験であった。それはまた森で聞いた篠笛の音色にも感ぜられたものであった。 かすかではあるが一本の透き徹るような音色が辺りに不思議と沈黙を呼び覚ます。その一つの音色により、世界中のあらゆるものに美しさが与えられ、生き生きとしてくる。
まるですべてのものに美という息吹が与えられたような不思議な感覚であった。
雑踏の中で奏でられたその笛の音色は周りの雑音にかき消されるどころか、また戦いもせず、周囲の雑音や騒音、人々のおしゃべり、空を飛ぶ飛行機、通り過ぎる宣伝カー、ガチャガチャした街の雑踏・・・ありとあらゆる生活の雑然たるあふれんばかりのかまびすしい音のひとつひとつを、その一本の笛の音色ですべてのものを美しい音色に生まれ変わらせていた。それはまるで深い沈黙の中で揺れ動き、きらめき、輝く星々のシンフォニーのように、見事に調和されたものであった。
すべてを包み込む深い沈黙性、それこそがこの新たな息吹を与える源である。 この沈黙、静寂というものは騒々しさと対極にあるものではない。演奏会場で「シーッ」と静かにすることで生まれたり、強制されるような静けさではない。
なぜなら、すべてはその沈黙の中で生滅する煌めきであって、この沈黙には生滅はないからである。
禅定や瞑想もしかり。精神を集中すべく雑念を追い払い、無念無想になろとしても、その求める心が沈黙を失わせている。しかし、この沈黙はどんな場合でも失われることはなかったし、これからも失われることはない。なぜならすべては沈黙の中の所産なのであって、はじめから沈黙であるのだから・・・
最近、町の人の話では、この産が沢の蛍や河鹿を楽しもうと、毎晩、一千人もの人が来ているらしい。あまりの人の多さに蛍よりもここに住む人々のほうが驚き困惑しているという。が、それも深い沈黙のなせる業かもしれない。実は、あなたがこの不滅の沈黙にいまここで出会わなければ人生の本当のすばらしさに気づけないのだし、不生不滅の沈黙に気づきなさいと、そんなことをここの蛍や河鹿たちは教えてくれているのだと思う。
どうだろう、あなたも、あなた自身よりも身近にあるこの深い沈黙に出会っているだろうか?
萬歳楽山人 龍雲好久