作成日:2011/06/20
心の通信H18・9・26《花の香りのごとし》
花の香りのごとし
暑さがまだ残るとはいえ、朝晩めっきり涼しくなってきた。この夏は境内の蓮がいつになくたくさんの花を咲かせてくれたが、聞くところによると朝顔や梨の実などはいつもよりかなり小さかったという。夜はコオロギやスイッチョなどがしきりに鳴いている。お盆の慌ただしさも過ぎてようやく落ち着いた季節を迎えられるところなのだが、収穫前、この近くの里山では異変が起きている。熊やカモシカ、イノシシ、猿、ハクビシン、狸などが異常に増えて、出没しているのだ。夜中、おとなしいコーギーを連れて散歩しているのだが、確かに、しんと静まりかえった果樹畑や森の奥で突然、彼らが前を横切ったり、後ろからついてきたり、がさがさと緊迫した気配を感ずることが多くなった。眼下に見える街の灯りを楽しむ余裕はない。
熊は桃の木などをばきばきと折り実を全て食べてしまう。まさに恐怖である。最近は200頭ばかり群れをなし行動する猿の集団が移動してきて、農作物は深刻なダメージを受けている。とはいえ、辺りはコロコロとコオロギが鳴き、点在する家々の明かりがぽっと灯る。そこには、これら全ての恐怖を圧倒してしまうほどの静寂があった。
さて、秋の夜長にじっくりと探求していただくために、仏陀の説き示された「花の香りのごとし」という話をしよう。
かようにわたしは聞いた。
ある時、多数の長老の比丘が、コーサンビーのゴーシク園にいた。その時、長老ケーマとダーサカとの間に、かような問答が交わされた。
「友ケーマよ、なんじは説いて、我ありとなすのは、何を指して我ありというのであるか。肉体(色)が我なりというのであるか。肉体を離れて我ありというのであるか。あるいは、受(感受性)を、想(想念)を、行(意志行為)を、識(認識)を指して、それが我であるというのであるか。それとも、それらを離れて、なお我ありと説くのであるか。友ケーマよ、なんじが我ありとなすのは、何を指して、我ありというのであるか。」
「友だちよ、私は、肉体(色)が我であると言うのではない。また、受や、想や、行や、識やを指して、これが我であると言うのでもない。あるいはまた、それらを離れて別に我があるというのでもない。
友だちよ、たとえば、ウパーラやパードンマやフンダリケ(白蓮華)の花のかおりのごときものである。もし人ありて、弁に香りがあると言ったならば、それは正しいであろうか。また、茎に香りがある、あるいはまた、花の蕊に香りがあると説いたならば、それは正しい説きかたであろうか。」
「友ケーマよ、それは正しくない。」
「では、友だちよ、どのように答えたならば、正しい答であろうか。」
「友よ、それはやはり、花に香りがあると答えるのが、正しい答である。」
「友だちよ、そのように、私は、肉体(色)が我であると説くのでもなく、また、受や想や、行や識やを指して、それらが我であると言うのでもない。あるいはまた、それらを離れて、別に我があるのだと説くのでもないのである。友だちよ、私は、肉体と精神の総体(五蘊)において、我があると見るのではあるが、また、これがわが所有(もの)と見るのでもないのである。」
さて、これは仏典の『南伝 相応部経典 二二、八九 差摩』と『漢訳 雑阿含経 九、一〇三』に出ている「花の香りのごとし」という話である。短いながら最も重要な「無我」についてわかりやすく示している。仏教に限らず世界には古今東西さまざまな信仰や宗教があるがここに端的に示されている「我とは何か」を問う姿勢を外してしまえば、どんな尊い教えも邪見に陥る。その邪見が世界を未だに自我の掲げると正義や真理や平和の名の下に混乱させているのは周知の事実である。
人類ひとりびとりが無我(叡智)に目覚めねばならばない。その目覚めるべき最も端的で理解しやすいものを次に示そう。長くなるが、とても大事なことなので何度も繰り返し読んで、自己探求していただきたい。
では、リラックスして、あなたの周りの世界を見回してみよう。青い空を見て、そして自分の心をリラックスさせる。空に雲が漂っているのに気づく。それには何の努力もいらないことに気づかれた、と思う。あなたの今の意識は、そのなかで雲が漂っているのだが、非常にシンプルで、容易で、努力がいらず、自然なものである。あなたは単にここに雲という単純な、努力のいらない「気づきがある」ということに気づかれるだろう。同じことは木々にも、鳥にも、岩にも言えることである。あなたは、シンプルに、容易に、何の努力もせずに、それらに気が付く。
自分の体のなかに起こる感覚を見てみよう。あなたは、今、どこであろうと、体の感覚に気が付く。今、椅子の上に座っているのであれば、お尻のあたりの暖かさ、首のまわりのコリなどに気が付くかもしれない。こうした感覚自体は、緊張や、締め付けられるような感じではあっても、それに気が付くことには何の努力もいらない。こうした感覚は、あなたの今の意識のなかで起こっている。その意識は、まったくシンプルで、努力もいらず、自然なものである。あなたは、単に、何の努力もせず、それらに気が付く。
今度は、心のなかで起こる思考に眼を向けてみよう。あなたは、さまざまなイメージ、シンボル、概念、望み、希望、恐れなどが実に自然に、勝手に自分の意識のなかで起こっていることに気が付く。それらの思考や感情は、起こり、しばらくとどまり、やがて去っていく。これらの思考や感情は、あなたの現在の意識のなかで起こるのであるが、その意識は非常にシンプルで、努力もいらず、自然なものだ。
雲が漂うのを見る。あなたが雲ではないがゆえに、あなたは雲を目撃する者である。体のさまざまな感覚を感じる。あなたが感覚ではないがゆえに、あなたは、感覚を見守るものである。あなたは、思考が漂い過ぎていくのを見る。思考ではないがゆえに、あなたは思考の目撃者である。自然に、何らの努力もなしに、すべての事象は生起する。あなたの現在の努力のない意識のなかで。
あなたとは誰か。あなたは外にある客体ではない。あなたは感覚でもない。あなたは思考ではない。あなたは何らの努力なしにそれらに気が付く。あなたは誰であり、何であるのか。
自分でこのように言ってみよう。わたしには感覚がある。しかしわたしは感覚ではない。ではわたしは誰か。わたしには思考はある。しかしわたしは思考ではない。ではわたしは誰か。わたしには望みがある。しかしわたしは望みではない。
こうして、あなたは意識を源までさかのぼる。目撃者にまでさかのぼり、そこで安らぐ。わたしは、客体でも、対象でも、感覚でも、思考でも、望みでもない。
しかし、ここでほとんどの人は大きな間違いを犯す。もしこの目撃者に落ち着くと、何か特別な、素敵なものを見る、あるいは感じる、と考えるのである。しかし、あなたは何も見ない。もし何かを見れば、それは別の対象、つまり感覚、イメージ、思考などである。それらは対象であって、あなた自身ではない。
目撃者に落ち着き、自分を対象ではない、感情ではない、思考ではないと認識してみる。やがて、あなたは、偉大な自由、解放の感じに気が付くだろう。小さな、有限な対象との同一化という恐ろしい拘束から解放された感じを味わうだろう。あなたの小さな身体、心、小さなエゴなどは、すべて見ることのできる対象であり、これらは真の見者、真の「自己」、純粋な「目撃者」ではない。そしてあなたとは、純粋な目撃者なのである。
したがって、あなたは何か特定のものを見ない。何か起ころうと、まったく問題ではない。空に雲が漂う。身体に感覚が漂う。思考が心に漂う。あなたは、何の努力もなしにそれらに気づく。すべては、あなたの自然で、シンプルで、何の努力もいらない意識のなかで起こっているのだ。この目撃する意識は、それ自体、あなたが見ることのできる特定のものではない。それは広大な、すべて起きるものの背景となっている自由の感覚である。あるいは純粋な「空性」である。それがあなたであり、そこにすべての顕現された世界が起こっているのだ。あなたは、この「自由」、「開け」、「空性」であって、そのなかで起きる小さなものではない。
「空」であり、「自由」であり、容易であり、努力のいらないこの「目撃者」に落ち着く。雲が広大なあなたの意識の「開け」のなかで漂っていくのを見る。雲はあなたのなかで漂っている。あなたは、雲を味わうことができる。あなたは雲と一つである。あなたの皮膚の内側にあるようである。それほど近くにある。空に浮かぶすべては、あなたの意識のなかで、漂っている。あなたは太陽にキスができる。あなたは山を飲み込むことができる。それほど近くにある。禅は言う。大海を一息で飲み干してみよ。それは内側と外側が「一」になった時、主体と客体が「二」ではなくなった時、見る者、見られるものが「一」になった時、もっとも簡単なことなのである。おわかりだろうか。
以上はケン・ウィルバーの「目撃者」の中から引用した。仏典の「花の香りのごとし」、同様余計な説明はいらない。ここにこそ人類ひとりびとりの叡智を開く鍵があるのだ。
萬歳楽山人 龍雲好久