作成日:2011/06/20
心の通信H18・11・11《静寂と愛(生と出会う)》
静寂と愛(生と出会う)
穏やかな秋の日差しを浴びて、笹の茂みの中から顔を出しているカリンの実が愛らしく輝いている。まぶしいけれど柔らかな日差しは、庭の白い塀に樹木の長い影を映し出し、色づきはじめた木々の葉をより鮮やかに映し出す。風もなく静かな日、鳴く鳥の声にもくつろぎを感ずる。時折、藪の中で蜘蛛の糸にぶら下がった一枚の枯れた笹の葉がクルクルと回転し、微風が渡ることを知らせてくれる。やがて、開け放たれた部屋の窓から心地よい風がやってきて、差し込む光と一緒に戯れ、勝手口の方へと出て行った。そこには子犬がうたた寝をしていた。心地よい光と風は彼女を優しく愛撫し、さらに向こうの垣根の葉群へと去っていった。何気ないことだったが、まさに、それは毀つことのできない愛と沈黙に満たされている一瞬であった。
クリシュナムルテイは次のように語りかける。
奇妙なことは、あなたが何の、誰のためにというのでもなしに、そのようなすばらしい愛情の感覚、愛と呼ばれるものの充満を感じることである。重要な唯一のことは、その深みそのものを探ること、終わることのない思考のつぶやきに満ちた浅薄でちっぽけな精神と共にではなく、沈黙「静寂」と共にそうすることである。沈黙はあまりにも汚染された精神から自由なものに貫入することができる唯一の手段、道具である。
私たちは愛が何であるかを知らない。私たちはその「歪められた」徴候は知っている。それは快楽、苦痛、恐怖、心配等々である。私たちはそれらを解決しようと努めるが、それは闇の中の彷徨になってしまう。私たちはこのことに昼も夜も費やし、それはほどなく死を迎えることによって終わる。
あなたが岸辺に立って水の美しさを見つめているときのように、もしも静かに愛と呼ばれるこのものに自らをひたすことができるなら、人間のあらゆる問題と制度、人の人に対する関係・・・それが社会なのだが・・・は、すべて自らの正しい位置を見つけだすだろう。
私たちはそれについて多くのことを話し合ってきた。若者は皆、誰か女性を愛していると、司祭は彼の神を、母親はわが子を愛していると言い、政治家たちはもとよりその言葉をもてあそんでいる。私たちは本当に言葉を台無しにしてしまい、それに無意味な内容・・・私たちの狭く小さな自己の内実・・・を負わせている。この狭くちっぽけな文脈の中で、私たちは他のものを見つけようとし、それは私たちの日常の混乱と惨めさに苦痛に満ちたものとして跳ね返ってくる。
しかし、それはそこに、水面にある。あなたのまわりのすべてに、木々の葉の中に、パンの大きなかけらを呑み込もうとしている家鴨の中に、今通り過ぎた脚を引きずる女性の中にある。それはロマンティックな自己同一化や、小利口な言語による合理化の中にはない。それはそこにある。あの車やあのボートと同じように現実的なものとして。
それが、私たちのすべての問題に答を与えてくれるであろう唯一のものである。いや、答ではない。というのも、そのときそこに問題はなくなっているからである。私たちはあらゆる種類の問題を抱え、それらを愛なしに解決しようと努めている。だからこそそれは増殖し、拡大するのである。それにアプローチする、あるいはそれを保持する方法はない。しかし時折、私たちが道端に、湖のそばに立って、花や木を見たり、農夫加工を耕すのを見れば、そしてあなたが静まっていて、夢想しておらず、白昼夢にふけっていたり、疲れていたりせず、強烈さをもって沈黙の中にとどまっているなら、そのときたぶんそれはあなたのもとにやってくるだろう。
時々はひとりになりなさい。そしてあなたが幸運ならそれはあなたのもとへやってくるかも知れない。落葉の上から、あるいは何もない野原にひっそりと立遠のく木から。
(クリシュナムルテイ著『生と出会う』大野龍一訳 コスモライブラリー から)
本当の生に出会うには、心のあらゆる条件付けから解放されていなければならず、その条件付けから解放されるには、条件付けられていることに気づくことによるしかない。愛や自由というもは涵養されたり育てられるところのものではなく、沈黙や静寂と同じく、われわれの条件付けられた精神によって、それは決してとらえられないものである。このいろいろな意味で条件付けられた断片的エゴや議論に終止符を打ち、かの心地よい微風が渡るほど、おおらかで無垢な心であればこそ、そこに愛や自由は現れる。おおらかで無垢なる心を失わせるわれわれ自身のあらゆる混乱や問題を直接見つめ、そこに潜む欺瞞生を見抜くことなしには、本当の生に出会うことはない。
萬歳楽山人 龍雲好久