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作成日:2011/06/20
心の通信H19・4・12《一本の蝋燭》
一本の蝋燭

 毎日、本堂を開け放ち、過去帳を捲り.蝋燭と線香を供養しているが、本数の少なくなってきた灯明と線香を手にして、ふと、・・・毎日生きているということは、いのちを燃しているということで、この一本の蝋燭とまるで同じだな・・・としみじみ思う。
 蝋燭も私もいってみればこの世の素材によって、形造られ、火が燈され、生命を燃やし続けている。大きく太い蝋燃もあれば、細くて短い蝋燭もある。風が吹いてゆらゆら消えかかる炎もあれば、カ強く輝いているものもある。燃え尽きる寸前、最後の輝きを発するものもあれば、フッと消えてしまうものもある。
 明かりが点され輝きだす灯火は、まさに、われわれのいのちそのものだ・・・
灯火は、しかし、私が一本の蝋燭を手にし、マッチで火を付けたもの。一本の蝋燭からもう一本の蝋燭へと火を受け継ぐことによって、そして、一本の蝋燭から、千本、万本と、いくらでも炎のいのちを分け与え、受け継ぐことも出来る。しかし、炎というもの、私でいえばいのちというもの、これは一体何なのだろう。
 明らかに、蝋燭は私ではない。その炎も私ではない。しかし、その蝋燭を手にし、火を灯したのは私だ。そして、私はその明りによって辺りを見ることができる。
 この一本の蝋燭が私自身であるならば、私を手にして、いのちを灯し、その輝きを通して見ているものがあるとすれば、それは一体、誰なのだろう。
 蝋燭の場合、「見ること」において、私と蝋燭と炎は結ばれている。しかし、蝋燭自体は、ただひたすら、点ぜられた火を、それこそ身を粉にして燃し続け、明かりを灯し続けているだけである。私はその蝋燭が灯りを利用して、世界を見、そして行動している(それが実際の明かりであれ、仏の智慧を象徴する法灯(明かり)であれ)。しかし、私はその明かりを使うことはあっても、世界を見、行動することにおいて、その明かりばかりに依存しているわけではない。そもそも、いま見ている世界は、蝋燭が照らし出しているが、蝋燭が創り出した世界ではない。それに蝋燭自身、この世界から生み出されたもののひとつであって、そもそも、はじめから、明かりの有無によらず、世界はある。それを蝋燭がほのかに照らし出し、私自身はそれを見る。私という目があり、認識することによって、蝋燭の光で世界を見るという行為が成り立っている。蝋燭は「灯火」、私でいえば「目(いのち)」、これを通して見るのだが、その背後に「認識」するものいなければ見ることにならない。蝋燭を通して世界を認識するもの、私を通して世界を認識するもの、それは一体、誰か?
 蝋燭と私の違いは、もちろん生き物とそうでない物との違いだが、その私といういのちは、あの蝋燭と灯火のように、いつかは燃え尽きるものであるが、ここで、問題にしようとしているのは、蝋燭の灯火すなわち私のいのちを通して見ているものとは何か?である。蝋燭と同じ有限なる私をとおして見ているもの、それは有限性を越えていなければ、そもそも見て認識するという普遍的(あらゆる生命に見られる)行為は現れてこない。 確かに、蝋燭である私自身も、自分が燃えることによって世界を見ているが、その「見る行為」を「見ている」ものについては、私自身以上にはわからない。あの蝋燭が自分に明かりを灯すもののことを知らないように、私自身のいのちを灯すもののことについては知らない。蝋燭も私も知らないが、個々をすべて含めた全「存在」ということに深く関わっているものである。紙面上、一気に進めるが、個々の有限なる存在の背後にあって、それらを通して、世界を見、行動しているものとは。その個々のもののいのちの働きを通して存在たらしめているものとは。普遍の見る目とは。すべてを存在たらしめているものは、一体、何か。
 しかし、それを、神といったり、偶然といったり、森羅万象の相互の法といったりするのは簡単だが、概念や知識で理解したところで何の意味があろう。有限的で個的存在である自分が、直に無限の全的存在の根源に触れることができずして、そう、この儚い人生において身を粉にしていのちを燃やし続けるものが、その本当のものを知らずして、何の意味があるというであろうか。
 では、本源を直にとらえることは可能であろうか。「然り、可能である」というより、「すでにあなたはそれである」といった方が正しい。有限なるものから無限なるものへ変えようとする必要はない。あるがままですでにあなたは本源なるものであるというのだ。 すなわち、あなたが、「目(目は必ずしも眼ばかりではないが)」を持ち、それを通して世界を「意識」しているものそのものだからである。しかも、個々のあなたはいつか燃え尽きるが、世界にあって目を以て意識するという行為は普遍に続く。いまのあなたも彼も、動物も植物も、鉱物も、細胞も分子も原子も素粒子も、あるいは地球も太陽も星雲もそれこそ全宇宙のすべての存在がそれぞれ自己の存在を持ってつながっている。3000年前のであろうが、3000年後であろうが、時空を越えてそれぞれの自己の存在の目(意識)を通し、見たり聞いたり感じたりしている。
 しかし、われわれが、いわゆる限られ身体や精神の反応に同一化していては、その永遠のものである自己の目に、ふたをするようなものであるから、いくら、あなたが本源のものだといわれてもピンとこない。一本の蝋燭である私を通して何者かが世界を見ているが、しかし、それは自分以外のものではない。私が見ているのだが、その私も、毎日、寝たり、覚めたり、目を開けたり、瞑ったり。あるいは、風が吹くごとにあっちにふらふら、こっちにふらふら揺れ動き、やがては本当に目を閉じてこの世から去っていくはかないものだ。私は断片的に条件づけられた狹い見かたそのものだし、あの小さな蝋燭がほんの一瞬の間だけキラリと輝くだけの、まるで線香花火でしかない自分だ。そのはかない私を通して見ているもの。条件付けられた私をも見ている私自身。世界のすべてのものが私という眼を持ち、その世界のすべての目を通して見ている全存在の目、それが本源というのなら、それはどのようなものであれ、「自分(私)」という意識の全統合された「私」というものの正体に気づくためには、この限られたあるがままの私の目を通して、どこまでも見続けるしかない。見られる自分は自分ではなく、見ている自分が自分であり、私が、私を見る行為の中に本源の自分がある。見ることこそ本源である。見ることこそが直裁であるが、それは、また、条件付けられて見ている自分をも見るものである。
 実は、あなたが自身が本源のものであるのである。

                          萬歳楽山人 龍雲好久