新年に際し、みなさまの安らかならんことを心からご祈念申しあげます。
本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。
明け方、不思議な夢を見て目が覚めた。
それは、山奥から左手眼下の松の山の向こうの麓にあるであろうお寺に向かってトコトコとおりているところであった。右手にも竹林と山があり、いよいよ麓も近いなあと思いながら、ようやく山あいの細い道を歩いていると下り道の先に山門の屋根があらわれてきた。それは二つ屋根の山門で、その先は更に下っているのだろう、山門の柱や石段はまだ道の先に隠れていた。やはりこの左手の奥、山の陰に隠れていまは見えないが、間違いなく寺がある。そう思いながら、更におりていくと、その山の陰で女性の声がする。どうやら幼子を呼ぶ母親の声らしい。「ショウジュマル、ショウジュマル、ショウジュマルや」と何度も呼んでいた。こんな山奥で、いったいどうしたのか?この寺の子供であろうか?そう思いながら寺に向かい下っていると、「ショウジュマル」と呼ぶ声がいっそう近くなり、そこで、目が覚めた。
ああ、夢であったか。しかし、「ショウジュマル」とはいったい誰のことなのだろう?気になったので、ネットで「ショウジュマル」を調べると、「松壽丸は一遍上人の幼名」とあった。これを見てあっ!と声を出してしまった。というのは、私の母方の祖父母は先祖がいずれも伊予の越智・河野の系列で、母たちは河野家の家系図の写しを大事に保管していたのだが、その河野の中に、「河野通秀」即ち「一遍上人」がおられたからだった。更に驚いたことには、一遍上人が生まれ育ったところを調べると宝厳寺というお寺があり、その山門は夢で見た山門と似ている。ただし、この寺は最近火災にあい再建されたばかりであった。そこで、この寺の古い写真はないかと探していると、ちょうど裏山が写っているものがあり、その寺の景観はなんと夢で見た山や道とそっくりであった。この夢を見たのは昨年の1月31日明け方、奇しくも我が母の命日であった。「ショウジュマル」とは一遍上人のことに違いないと思っている。
なぜ、一遍上人の幼名が夢に出てきたのか不思議であった。
新型コロナ感染症、プーチンが起こした戦争などならず者の独裁的国家や宗教の極悪非道の暴力と搾取性、大地震や気候変動に伴う自然破壊に、ますます混迷の度を増すわれわれの苦しみと混乱を見かねて、一遍上人は何かを伝えんとされておられるに違いない。そう思いながらも、取り寄せてみた『一遍上人全集』を何気なく開くと、播州法語集の一説が目に飛び込んできた。
ある時の仰せに言われたことには、生死の苦は妄念によっておこる。しかし、妄執や煩悩には、拠り所としての実体があるわけではない。それなのに、この本末転倒した妄執の心によって、善悪を分別判断し、これによって生死の迷いを離れようとするのは、何の理由もないと、常に考えるべきである。何かを分別判断しようとすることが、迷いや苦からの脱却の障害となる。 だから、「念即生死(分別判断の中に既に迷苦がある)」と説いている。生死の迷苦を離れるとは分別判断を捨て去ることをいうのである。分別判断する心を持ったまま、生死の迷苦を離れ、念仏安心の境に入るということは、全く根も葉もないことと言えるのである。
ある時の仰せに言われたことには、『阿弥陀経』の「一心不乱」という文句は衆生の自力による一心不乱ではなく、名号自体にそなわった一心不乱なのである。もし、名号以外に心を求めたなら、それは念仏する人自身の心となるから、名号の一心と念仏者の一心とで二心雑乱とせねばなるまい。とても、一心とは言えない。だから、『称讃浄土経』には、「(慈悲をもて加へ祐けて、心をして乱れざらしむ)阿弥陀仏が慈悲をもって、お力を添えて心が乱れないようになさる」と説いている。だから、 一心とは衆生の側でおこす我執の妄念の一心ではない。
南無阿弥陀仏。
この一説に触れ、小生は心が打ち震えるのを禁じ得ない。生涯かけて探求してきて、なお到らざる小生の迷妄をスパッと除いてくださる力強い一説であった。一遍上人はブッダのように自我蒙昧の一切を捨てる捨て聖であった。しかし、あの聖フランチェスカのように、南無阿弥陀仏である神の光を一心不乱に、混迷に懊悩するあらゆる人々の中に入り、わけへだてなく、神の愛、弥陀の慈悲を享受せしめる。
混迷する現代に、この「松壽丸や」と呼ぶ声を通して一遍上人がお伝えくださったのは、生きとし生けるもののいのちは慈悲と愛と英知の弥陀が限りなく護っていてくださるということであろう。
「自我による虚妄を捨てれば、光あるもの、これ一心なり」と。
混迷する時代とはまさに今日目の当たりにしている「自我に翻弄されるものの」時代である。人は、こうしたならず者のような悪魔化した自我の前になすすべもないというのであろうか?そうではない。いのちは本不生の源泉から刻々ともたらされ、遍満する光あるものの中で刻々に生かされている。先ず、自我の欺瞞性を打ち砕かねばならない。虚妄のなせる業に恐れず、われわれはそもそも汲めども尽きせぬいのちの源泉、光あるものとして生かされている。そのかけがえのないいのちを喜び謳歌できる時代を築けというのであろう。
萬歳楽山人 龍雲好久