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作成日:2011/06/20
心の通信H19・7・11《神聖なるもの》
   神聖なるもの

 この寺の西の方に標高400bほどの小高い山がある。穏やかな丘のような山であるが、このあたりに住むものにとっては、本来、弥陀・観音の浄土にふさわしい山で、その中腹や麓あたりには豊かな棚田や果樹畑が広がり、古くからの幾つもの寺や神社が散在する。幼少から、本堂の脇から四季折々に仰ぎ見て、この山をいつも身近に感じてきた。いまでは山の頂上に送電線が張られの鉄塔がいくつもある。しかし、それも見方によっては仏塔だと思えば気にもならなかった。
 今頃の季節、このあたりは実に長閑で、田植えが済んだ棚田や沢にたくさんのホタルが飛び交う。カジカやヒキガエル、ウシガエルたちの合唱がかまびすしい。しかし、それがこのあたりの山や森の沈黙をより一層深めるものでもあった。
 深夜、この山に月がかかるときなど、水が張られた棚田の湖面に映るその山や月の美しさは何とも言えぬものがある。この山の凛とした佇まいは何物にも代え難い神々しさがある。
 しかし、その山の頂上に登ってみると、悲しいことに、採石場としてかなり深くえぐり取られ、廃墟のように痛々しく傷跡が残っている。しかも、利用者のほとんど無いモトクロスの練習場にもなっていた。小さい頃からこの削り取られゆく山の姿を寺から眺めては、心を痛めていた。昔から、山々は神々や祖霊がやどる聖なる場所として、人々は深く敬い崇めていたというのに、どうして、このように荒れてしまったのであろうかと不憫でならなかった。
 この麓にある町は、奥州街道と羽州街道の分岐点にあたる、歴史の古い町であった。人口は13,000人弱で、寺の数は20を超している。最近、街おこしのために、歴史や文化を見直し、町の特性を活かし、多くの客人を呼び寄せ、活気のある町にしようと、幾多のボランティアグループがそれぞれ特徴を持ちながら熱心な活動をしている。例えば250種類の蓮の花で町を一杯にしたり、桜を3万本植えようとしたり、源氏ボタルを養育し、無数に飛び交わせる。歴史ある町並みを保存活用し、数ある文化財を顕彰し多くの人に立ち寄って楽しんでもらうべく実に多くのボランテア達が涙ぐましい努力をしながら、イベントを展開している。しかし、彼らの努力が実を結ぶには壮大なスケールで全てが相乗効果をもたらすようにならねばならず、それには実に地道な努力と時間が必要なのであろう。
 そんな中であるグループの長が尋ねてきて、この街作り事業を成功させるには、町全体がまとまり協力し補完せねばならないのだが、これまで話し合った結果では、町当局は全く当てにならない。自分は、やはり、なんと言っても、この街の目玉となるものとして、日本一の蓮の花、日本一の桜などが必要だと考え展開してきた。だが、それだけでは足りない。そのためには人々の精神のよりどころなるものが必要だと考えており、祈祷寺院や霊園を建立するのも良い案だと思うがどうだろうというのである。よくよく話しを聞いてみるとボランテアだけでは事業の進展に限界を感じ、事業資金を生み出せる他の事業とタイアップできるものを探しているようでもあった。そこで、彼らが寺を建てたいと思っている場所があるのでそれを僧侶として見て欲しいという。案内してもらった。しかし、いずれもあまり良い場所ではなく、公園にするのがせいぜいであると思われたので、あの、昔から思ってきた山を指し示した。あまりにも間近にあった山で彼らは気づかなかったらしい。しかし、指し示されると、彼らも大変気に入って、是非、あの山を何とかしようということになった。・・・そこからが凄い・・・驚くなかれ!なんと!彼らとともに、ある代議士さんまでがやってきて、3億から5億円の資金なら提供者がいるので、是非、この山に祈祷寺院を建立しようではないか。世界的な設計者が代議士の友人にいるからこの山全体の構想を設計してもらっても良い。それを目玉にすれば、たいしたものになるよという話しにまで進んでしまった。
 しかし、この話を進めるには肝心なことがある。それは「資金は全て寺に対する無償の寄付金であること。何ら仲介料や見返りを求めるもであってはならないこと。寺院の収益は先ず寺院の維持管理運営に優先せねばならず、年間100万人が参拝する寺院となる試算が出ているようだが、この田舎に、5億や10億円の寺院を建立したところで、そのようなものはすぐには期待できないこと。」などを代議士に直接確認した。ところが、やはり、「そんな・・・いまどき、もうけなしの金など出すものなど、おらんよ」という。これで、一件落着。
 野心は良くない。野心は大きければ大きいほど刺激的だが、破滅に導く。昔は、天皇や将軍や大名、豪族たちが大寺院や伽藍を建立してきたが、野心はあっても、そこには、少なくとも、仏教に対する深い帰依心、信仰や信心、供養の心で建立されてきた。もとよりこの代議士さんやかの代表者にそれほどの帰依心があるとは思われないのだ。
 では、なぜ、彼らにかの山を指し示したのであるか。それは、あの山が聖なる霊山であることを理解して欲しいという気持ちもさることながら、あの山に寺院を建立したいという野心かもしれない。野心であればあのモトクロス場のようにいかに壮大な伽藍を築こうとも、山を汚すことにほかならない。では、どのようにしてあの山の神聖性を護るべきであるのか。あの山の神聖性を感ずるには、人々の心が神聖でなければならず、心が神聖であるには、いかなる野心からも解放されていなければならない。野心が起こるのは権威や欲望に対するコンプレックスからくる。この野心から解放されるには、自分の中にある野心に気づくことが大事だ。あるがままの自己を見つめ、おのが心の野心や俗事性に気づくことこそ、それらのものを一掃してこそ、ひとりひとりの神聖性が顕れるというものだ。
 街おこしはいかに熱心で斬新なアイデアで繁昌していても、そこに生活するものの心を深く理解することを妨げる野心的なものがあるかぎり、百害あって一利なく、自己満足に等しい。 花が咲き乱れ、ホタルがどんなに飛んぶようになろうが、どんなに旨い果物や野菜がとれようが、そこに住むわれわれの自身の心が野心と欲望にうごめき、互いに相克し葛藤しているものであるかぎり、そこに神聖性は全くない。
 重要なことは、人と自然の神聖性に気づくことが肝要であり、それには自己を知らなければならない。自己を見つめ理解するところにおのづから神聖性は顕わになる。あの山はそれを無言で指し示しているのであった。
      萬歳楽山人  龍雲好久