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作成日:2011/06/20
心の通信H19・9・26《本不生》
 本不生(ほんぷしょう)

 夏がぱたりと止み、あたりには沈黙が漂っている。ふと見ると、堂宇の濡れ縁に一匹の蝉が座して死んでいた。びくともせぬそこには一切を寄せ付けぬ厳粛さがあった。
 生にとらわれる限り、死は生を脅かすなにものでもない。生きるものは常に死を恐れ、戦き、怯えている。生きることは、生命の維持拡大延長であり、死はそれを根こそぎもぎ取るものである。それ故、死は生きるものには苦痛のなにものでもない。
 では、死は絶対であり生は砂上の楼閣にすぎないのか。生きるものにとって死は理不尽であり、生のすべてを灰燼に帰す横暴なものである。生における不安と恐怖の根底にあるものは常に死である。生の有限性を死がもたらす。しかし、生は死に直面するまで、それを回避し阻止すべく苦闘する。全生命力を上げて死を阻止する。しかし、死は圧倒的な威厳を持って必ず終わりを告げにやってくる。
 人は、生にとらわれるがゆえに恐れ、戦き、回避しようとする。あまりの恐怖と苦痛から、麻痺をおこし、死を直視することをあくまで拒む。しかし、いかに死後の世界をイメージし、天国や極楽を信じたいと思っても、否応なしに生を終わらせる死のまえにたたされて木っ端微塵に消え去る。あくまで死を避けているのであれば、いかに死後の世界を願おうと、真実ではなく虚偽である。
 死が何であるかを生は決して理解できない。生が知っている死は、他者の死であり、自らの死そのものではない。生きている限り死はとらえることはできない。なぜなら、生のすべてが終わること自体が死であるからだ。
 しかるに、死は絶対でありながらその中で生滅が生じ、繰り返されている。生滅の中、とくに生の枠内にのみとどまる限り、滅は脅威であり、苦しみであり、はかなく、もろく、決して、生滅を見れることはなく、したがって、死を理解することはない。
 さらに、生が自我中心のもので、しかも、有限なることを無視して、自我の永続性を願う限り、そこに本当の安らぎは得ることはできない。
 自我とはこの有限なる生において形成された自意識のことを言う。有限なる生において形成された自我は他のものと同じく死によって滅する。すなわち解体雲散霧消するものだ。生の側面のみのよって形成された自我は死を決して受け入れることはできない。自我(わたくしやわたくしと同一化した信念など)の永続性と拡大を希求するばかりである。生死(しょうじ)は一如(いちにょ)であることを理解しないために、他者に対しても自らに対しても生を過大評価するか、反動的に生を軽んずるかだ。それらの自己中心性はすべて死の恐怖であり死を無視しようとする自我の本性である恐怖心である。
 このような、永続性を願う自我の問題はいったいどこから来るのか。繰り返すが、それは、自己中心性からくる。すなわち、過去・現在・未来という時間の流れに乗って自己を存続しようとする働きである。昨日よりは今日、今日よりは明日と考えるもであり、昨日がだめだから今日もだめ、明日もだめだとはかなむものでもある。自己中心性は自ずと時間と空間の枠をくくり、自己の位置を測定し、そこから大小、遠近、優劣等さまざまな比較計量をし、領域やテリトリーを確保し、自我を維持拡大させようとする。そこから他者との飽くなき相克、葛藤、闘争を展開する。自己中心性は生を起点にしているがため、時空上からも有限なるものであり、常に死の脅威にさらされている。支配するものもされるものも、殺すものも殺されるものも死の恐怖に基づく。たとえ、死の恐怖を変形し、永遠の命を信じようとも、恐怖を麻痺させようとも、恐怖の元である自我からは解放されていない。また、たとえ、恐怖の元である自我を死をもって終わらせようとすることも、また、自我の強化に過ぎず、本当の意味での死にはめぐりあえず、かたくなな自我のゴミとなって浮遊し苦しみ続ける。
 このような生に基づく自己中心的な自我によっては、決して死をとらえることはできない。死がとらえきれないから、自らの拡大と永続性を希求する自我は死を前にして、じたばたせざるを得ない。なぜなら、自己中心性による拡大と永続性は時間と空間の枠内での生を意味し、決して死をとらえることはできず、まして、時空を超えた生死の本源、本不生を理解することは全く不可能であるからだ。
 だが、かの蝉は本不生を生きた。森羅万象万物すべての生は本不生を生きている。人もまた本不生を生きている。
 「われわれのいのちは本不生である」かの蝉は無言でそれを示している。時空を超えた生死の本源、本不生とはまさに「只、今を生きる」ことに他ならない。過去は死滅し、現在は全く新しい生であり、未来は死と新たなる生である。新たなる生は刻々の死であり、刻々の生である。死がなければ新たなる生はなく、生死流転は自我の錯覚で、刻々の死、刻々の生である「いま」があるのみ。移ろいゆく現象世界は生死流転なれども、ただ只いまにこそ本不生は厳然としてあることに気づかなければならない。
 堂宇の濡れ縁の片隅でぱたりとその生涯を終えた一匹の蝉がまさにそのことを示している。
 

                          萬歳楽山人 龍雲好久